年代順に年表と記事を掲載。
重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1554年 天文23年
天皇 後奈良 将軍 足利義藤
1月28日 武野紹鴎が松永久秀と今井宗久を招き、茶会を催す。※
3月24日 大山の中腹にある大山寺の堂宇がことごとく焼失した。
尼子晴久がただちに再興。
3月 武田信玄・北条氏康・今川義元が和睦し、
信玄の娘が氏康の子氏政に、
氏康の娘が義元の子氏真に嫁することが決まる。
(善徳寺の会盟)
5月28日 加賀の白山が大噴火。
一向宗が広まったため怒った白山が噴火したと噂され、
一向宗禁止の口実にされる。
6月5日 毛利元就が陶晴賢の派遣軍を折敷畑(廿日市市)で破る。
8月13日 本願寺証如没。
10月3日 島津貴久が岩剣城(鹿児島県姶良町)の祁答院氏らを破る。※
11月7日 足利晴氏・藤氏父子が北条氏康にそむいたため、
氏康が古河城を攻略し、晴氏父子を相模波多野に幽閉する。
※武野紹鴎(たけのじょうおう)が松永久秀を招く
久秀は三好長慶とともに堺に赴任しており、
一方の宗久は堺の36人の会合衆(えごうしゅう)の中心メンバーである。
長慶の堺赴任は畠山氏の堺攻めに備えてのものだったので、
茶人の紹鴎が久秀と宗久を招いて茶会を開いたことは、
茶会が政治とかかわりはじめたことを示している。
※島津貴久、岩剣城を占領
岩剣城(いわつるぎ)は独立峰に築かれた堅固な城で、
蒲生氏方の祁答院(けどういん)氏が守っていた。
蒲生氏は大隈の肝付氏、薩摩北部の渋谷氏と結び、島津氏と対立していた。
初陣の義弘(貴久の次男)はこのときの軍功で岩剣城を預けられた。
1555年 弘治元年
天皇 後奈良 将軍 足利義藤
3月21日 北条氏康が卜算・イタカ・声聞師を天十郎が統括することを認める。※
4月20日 織田信長が清須城の守護代織田広信(信友)を自害させる。
ついで那古野城から清須城に移る。
5月11日 倭寇が全羅道を襲撃する。
7月23日 朝倉教景(宗滴)が、加賀一向宗を攻撃する。
8月21日 武田信玄が鳥居峠を越えて木曾谷に入り、信濃全域をほぼ制圧する。
10月1日 毛利元就、厳島に陶晴賢を急襲。西国覇者への道を一気に進む。
閏10月10日 義元の軍師、太源崇孚が死去。今川氏は中心的存在を失う。※
閏10月29日 武野紹が没する。わび茶を深化し、利休に伝える。
※天十郎、声聞師らを支配
北条氏の裁判機関は、小田原の舞々の天十郎に対し、
占いなどをするイタカと声聞師(しょうもじ)を支配し、
彼らから役銭を取り立てる権利、および他国から来た者を調べ、
不審者は奉行所へ届け出ることや、天十郎の支配に服さない者を
処罰する権利を認める判決を下した。
※太源崇孚死去
崇孚は今川義元が四歳のときから教育係をつとめた。
義元が十八歳で家督をついでからは軍師となり、
甲斐の武田氏、相模の北条氏との三国同盟締結に奔走したり、
三河侵攻の大将をつとめるなど、今川氏の政治・軍事の中心的存在だった。
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