関ヶ原の戦(前編)
慶長五年(1600) 徳川家康vs石田三成
<秀吉亡きあと、豊臣恩顧の大名の対立につけこみ家康は天下を制する>
慶長五年(1600)九月十五日、
美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町付近)で天下分け目の戦いが行われた。
決戦場における軍勢の数は、徳川家康を総大将とする東軍は約七万五千、
石田三成率いる西軍は約八万二千であったといわれる。
近くには、直前まで西軍の本陣であった大垣城(同大垣市)に
五千あまりの西軍守備隊、それに備える東軍の後詰が一万二千程度いた。
その他、中山道を進む徳川秀忠軍や大津城(滋賀県大津市)攻めの
西軍をあわせれば、双方十万以上の軍勢が集結しつつあったことになる。
勝敗は、西軍内部から東軍への内応者が出たため、東軍の勝利に終わった。
この戦の結果、豊臣政権下の大名配置は大きく変わり、
江戸時代の幕藩体制下の大名配置の原型ができあがる。
豊臣家は摂津・河内・和泉の一大名になり、
徳川家康の天下取りもほぼ決定的となった。
「天下分け目の関ヶ原」とよばれる所以である。
一日だけの戦闘だが政局を動かす最後の戦い
関ヶ原での決戦は一日だけで終わっている。
しかし、これは豊臣秀吉死後における家康の権力奪取過程の
総決算であって、合戦の影響は全国規模におよんでいる。
「伏見城攻め」や「上田城攻め」なども、
この戦いの前哨戦として戦われたものである。
また、「長谷堂城の戦」のように、関ヶ原の戦に関連した
地域対立からおこった合戦も、全国でおこっている。
さらに、関ヶ原の合戦以後でも、大坂の陣(慶長十九・二十年 1614・1615)や
島原の戦(寛永十四〜十五年 1637〜1638)などいくつかの合戦があったが、
いずれも勝敗の行方はあらかたみえており、
大坂城や島原城に現役の大名が味方することはなかった。
関ヶ原の戦では、東軍・西軍双方に現役の大名だ参加している。
徳川政権の天下統一が確立していくなかで、
いくらかでも政局を変える可能性があったのは、この戦いが最後であった。
さらに、豊後の大友義統(よしむね)など豊臣政権下で没落した勢力も
復活をかけて関ヶ原以外の地域で参加している。
この点でも、関ヶ原が最後の「天下分け目」であったといえる。
戦闘の主役は両軍とも豊臣恩顧の大名
東軍の構成をみると、徳川家康直轄の三万のほかは、
松平忠吉や井伊直政、本田忠勝などの徳川大名と、
黒田長政や福島正則、細川忠興などの豊臣恩顧の大名にわかれる。
ただ、徳川大名の多くは、秀忠とともに中山道を進んでいた。
実戦への参加は、豊臣大名の割合が高い。
西軍はもちろん豊臣大名で占められている。
実質的な戦闘は、こうしてみると徳川対豊臣(石田)ではなく、
豊臣大名どうしの戦いであったといえる。
この背景には、豊臣大名内部の「武功派」と「吏僚派」の対立が存在した。
福島正則や加藤嘉明など合戦場での活躍を重視する武功派と、
石田三成など豊臣政権の官僚層としての吏僚派は、秀吉在世中から対立していた。
さらに、それを激化させたのが、秀吉の朝鮮侵略
(文禄一〜慶長一、慶長二〜三 1592〜96、97〜98)である。
秀吉は激化した対立を調停しないまま
慶長三年(1598)に亡くなり、決着はもちこされていた。
基本的には、東軍が武功派、西軍が吏僚派と色分けすることができる。
そこに、家康の付け入る隙もあった。
家康は豊臣大名の内部対立を利用し、双方を戦わせることで、
自らの勢力はあまり傷つけることなく勝利を収めたのであった。
(続く)
次回予告 関ヶ原への道 関ヶ原の戦(後編)
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