年代順に年表と記事を掲載。
重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1550年 天文19年
天皇 後奈良 将軍 足利義藤
2月10日 守護大友義鑑が後継者のことで家臣に襲撃され、深手を負う。
(大友二階崩れの変)
4月1日 北条氏康が従来の税制を改革し、貫高の6%の懸銭を創設。
逃亡していた百姓の借銭・借米の免除を認める。
5月4日 京都帰還をうかがいながら前将軍足利義晴、近江穴太で病死。※
6月 ポルトガル船が平戸に初来航し、領主松浦隆信はおおいに歓迎する。
7月12日 一乗谷の朝倉館で公家清原宣賢死去。
7月13日 毛利元就が家臣井上一族を粛清する。※
9月 フランシスコ・ザビエルが大内義隆から山口での布教を許される。
10月1日 武田信玄が村上義清に再度敗れ、武田勢千人余りが討死する。
(詳しくは→戦国百科 合戦 戸石城の戦い)
※前将軍足利義晴没
朝8時頃、義晴が穴太(大津市)で病死した。40歳だった。
同月21日に慈照寺(京都市左京区)で葬儀が行われ、同寺に葬られた。
義晴は前年の6月28日に、子の将軍義藤や管領細川晴元とともに
京都を脱して坂本(大津市)に逃れた後も、京都奪回を目指していた。
義晴の将軍在職は25年におよんだ。
※毛利元就、重臣井上一族に血の粛清
毛利元就は、以前から当主をないがしろにし、公儀の役をつとめないなど、
驕慢なふるまいが多かったとして、重臣井上元兼とその一族30人余りを急襲して殺害した。
元就は「ならいわるく」なった家中をたてなおして、
当主隆元に引き渡すために行ったものだと述べている。
1551年 天文20年
天皇 後奈良 将軍 足利義藤
3月3日 織田信長の父、織田信秀没。※
3月14日 進士九朗が三好長慶を襲う。賢光は捕えられ自害させられる。
7月14日 三好長慶の武将松永久秀が丹波から入京した
細川晴元軍を相国寺から追い出す。
8月29日 陶晴賢が大内館を襲撃する。
9月1日大内義隆が逃亡先の長門の大寧寺で自刃。※
8月 守護代上杉謙信が坂戸城主長尾政景と和睦、謙信の姉が政景に嫁ぐ。
9月1日 北条氏康が市宿新田で田畑開発にあたる移住者に
諸役を免じ、食糧の支給を約束。
10月24日 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルがポルトガル船でインドのゴアに帰る。
大友宗麟は家臣ロウレンソ・ペレイラを同行させインド総督に信書を送る。
※この年、蠣崎季広がアイヌと和睦し、『夷狄の商舶往来の法度』を定める。
※織田信秀が死去
末森城(名古屋市)の城主織田信秀が流行病にかかって没した。享年41。
葬儀は信秀が建立した万松寺(名古屋市)で行われた。
葬儀に際して、嫡男信長は茶せん髪で袴をつけない異様な風体で現れ、
抹香を仏前に投げかけるという奇異な行動をとり、
「大うつけ」と周囲の反感をかった。
※大内義隆、陶晴賢(すえはるかた)の謀反で自害
武断派の晴賢は、かねてから義隆が文治派の相良武任(さがらたけとう)を
重用していることに反感を抱いていた。
やがて義隆を除こうと決意した晴賢は富田の若山城(新南陽市・徳山市)で挙兵した。
義隆の死は、以後の政情に多大の影響を及ぼしただけでなく、
明との勘合貿易も終わらせることとなった。
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