小田原城攻め
天正十八年(1590) 羽柴秀吉vs北条氏政・氏直
<秀吉の服属要求を拒否し続けた北条氏だが
惣無事令違反を理由についに滅ぼされる>
相模小田原城は、築城年代は不明ながら、
明応四年(1495)に時の城主大森藤頼から伊勢新九朗こと
北条早雲が奪取して以来、北条五代にわたる居城となった。
北条氏は、早雲の跡を継いだ氏綱(うじつな)以来関東に進出し、
五代氏直(うじなお)の代には北関東の一部と、
房総半島先端部をのぞく関東一円を支配領域とした。
北条氏は上洛はするが、秀吉との戦闘は避けられず
天正十六年(1588)縁戚関係にある徳川家康の仲介と
豊臣政権の度重なる催促を受けて、氏直の叔父にあたる
氏規(うじのり)がようやく上洛して秀吉に謁した。
秀吉は、自分に対し服属の礼をとった北条氏を許したが、
前当主で氏直の父氏政(うじまさ)の上洛も強く求めた。
このとき、氏規は氏政が上洛する条件として、
上野沼田領をめぐる真田氏との領地紛争の解決を秀吉に要望した。
秀吉は、沼田領の三分の二を北条氏に、三分の一を真田氏に
帰属させるという裁定を行い、この問題を処理した。
しかし、その後も氏政は上洛する動きを見せず、
さらに天正十七年(1589)に沼田城(群馬県沼田市)にいた
北条氏家家臣猪俣邦憲は、先の領土裁定を破って、
真田氏の沼田領内にある名胡桃城(なぐるみ 同月夜野町)を奪取してしまった。
これを聞いた秀吉は怒り、同年十一月二十七日付けで徳川家康を介し、
北条氏に対して天下の勅命に反する賊と罵る宣戦布告状をたたきつけた。
これをうけて北条氏側では本城小田原での籠城の用意に努めるとともに、
領内の支城の改修・整備を進めた。
とくに、東海道筋にあたる韮山城(にらやま 静岡県韮山町)、
山中城(同三島市)、足柄城(同小山町)は天険箱根越えの前後に位置し、
小田原城の前衛として軍事的な強化が図られた。
圧倒的軍備の差で北条氏は秀吉に降る
翌天正十八年(1590)三月一日、秀吉は京都を発し、
同二十七日に駿河国沼津に到着、二十九日に織田信雄らに韮山城の攻略を命じ、
羽柴秀次には山中城の攻略を命じた。
山中城では両軍ともに激しい鉄砲戦を展開し、
豊臣軍の一柳直末などが討たれるなど、大きな損害を出した。
しかし、圧倒的な兵員と戦功を競う豊臣軍の力攻めの前に、
山中城はわずか一日で落城した。
この落城により、豊臣軍は大きな抵抗をうけることなく、
四月六日には箱根湯本の早雲寺に本陣をおいた。
これより先、豊臣軍の諸将は小田原城を取り巻くように
それぞれの陣をはって、包囲網を固めた。
大名陣所のうちでは、細川忠興(ただおき)の富士山陣場が
現在も良好に遺構を残している。
また、発掘調査で小田原城外郭に近接した位置に、
豊臣軍が構築したと推定される仕寄遺構が検出されている。
このほか、豊臣軍は海上からも兵船によって小田原城を包囲した。
当時の小田原城は、延長約九キロにおよぶ堀と土塁から構成される
総構えによって防御されていた。
ときに、北東丘陵続きの「小峰御鐘之台」(こみねおかねのだい)
とよばれる一角は出曲輪状を呈し、
現在も堀幅が三十メートルにおよぶ巨大な遺構を残している。
文字通り、北条氏の本拠にして戦国期最大級の
規模と軍事性を誇った城郭であった。
しかし、この小田原城も圧倒的な軍勢を誇る秀吉軍の包囲網にあっては
有効な打開策を見いだせず、城内ではいわゆる小田原評定が続くことになる。
関東各地の北条氏方の支城も、韮山城、忍城(おし 埼玉県行田市)を
除いては徐々に豊臣軍に攻略された。
ついに七月五日、当主氏直は自らの命と引き換えに、
城兵の助命を嘆願、降伏した。
秀吉は氏直を高野山に追放し、氏政、その弟氏照(うじてる)、
重臣松田憲秀、大道寺政繁を切腹に処した。
かくして小田原城をめぐる合戦は終結し、北条氏も滅亡した。
その後の関東には徳川家康が入封し、江戸幕府を開く礎を築いている。
秀吉の「一夜城」規模・構造は陣城を超える
秀吉の築いた石垣山城(神奈川県小田原市)は、俗に一夜城と呼ばれるが、
けっして臨時的な城郭の範囲にとどまらない。
主要な曲輪を高石垣で固め、虎口は折れを多用し、本丸隅には天主台も置いている。
天主台周辺からは瓦片の散布がみられることから、
かつては瓦葺きによる本格的な天主建築が存在したのであろう。
合戦にともなって築かれた城郭という点では石垣山城は陣城の範囲に含まれる。
しかし、それ以前の大名築城にあっかる陣城とは、
規模・構造・耐久性の点で比較できないほど卓越する。
ただ、石垣山城の周辺に築かれた大名衆の陣城は、
旧来の陣城の形態から大きく変化していないようである。
つまり、秀吉は自らの本陣の居城化を図ることで、
周囲に在陣する大名との身分的・軍事的な隔絶性を明確にさせた可能性もある。
そして、秀吉がこのような石垣山城を合戦最中に築きえた背景には、
国内の統一事業をほぼ完遂させ、後顧の憂いのない状況が存在したことを示す。
次回からは、「関ヶ原への道」として、
関ヶ原までの合戦をみていきたいと思います。
次回予告 関ヶ原への道 伏見城攻め
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