皆様も風邪には十分注意してください…
応仁の乱〜大坂夏の陣までのおよそ150年間を戦国時代と想定し
年代順に年表と記事を掲載。
重要事項は年表に記し、特筆すべきエピソードは
※マークをつけ、記事にしています。
間違いがあったらごめんなさい。
1540年 天文9年
天皇 後奈良 将軍 足利義晴
6月6日 織田信秀が松平氏の属城安祥城を攻撃する。
松平広忠が援軍を送り、撃退する。
6月17日 疫病の流行により、宮中で不動小法の一斉祈祷が行われ、
後奈良天皇が般若心経を書写する。※
8月2日 武田信虎が海ノ口の問屋に伝馬定書を与える。
8月16日 尼子晴久が大内義隆の石見銀山を攻略する。
9月4日 尼子晴久が兵三万余を率いて毛利元就の郡山城を包囲する。
11月21日 北条氏が鶴岡八幡宮を再建し、遷宮が行われる。※
11月29日 諏訪頼重が武田信虎の娘と婚姻。
12月10日 補陀落渡海をした長谷寺十穀に上人号が贈られる。
※宮中で疫病阻止の大祈祷
この春以来のすさまじい飢饉と疫病を阻止するための「天下大疫御祈祷」だった。
費用は、幕府が洛中の土倉に臨時課税して捻出した。
醍醐寺の僧厳助が日記に、
「都鄙の死者、幾千万を知らず、七百余年以来、かくの如き例なし」
と記しているほどであった。
※北条氏、鶴岡八幡宮の正遷宮を挙行
小田原城主北条氏綱の主催する鎌倉鶴岡八幡宮の、
正遷宮の儀式が厳かにとりおこなわれた。
この工事によって、北条氏が古河公方足利氏や関東管上杉氏にかわる
関東の覇者であることを内外に印象づけ、
また領国内の職人の把握と動員体制の整備が格段に進んだ。
1541年 天文10年
天皇 後奈良 将軍 足利義晴
1月13日 毛利元就・陶晴賢(隆房)が尼子晴久(詮久)の軍を破る。
晴久は石見に退く。
3月21日 高野山で『声明集』が開板される。
5月5日 守護今川義元が見附の代官制を住民らの反対で廃止。
6月14日 武田信虎が子信玄(晴信)によって女婿の今川義元のもとへ追放される。※
7月5日 大内義隆が厳島社の祭礼を再興させる。
7月19日 北条氏綱(55)没。子氏康が家督を継ぐ。
10月29日 木沢長政が京都に迫り、細川晴元は岩倉に退く。
11月13日 尼子経久(84)没。※
※信玄、父信虎を追放
信虎は嫡男信玄の勧めで女婿の今川義元に会うため駿府へ旅立った。
だが、信虎は今川方に拉致され、ふたたび甲斐の土を踏むことはなかった。
これは信玄が義元や反信虎派の重臣たちとはかって信虎を強制隠退させ、
当主の座についた無血クーデターだった。
※尼子の大黒柱、経久が死去
尼子経久が居城の富田城(島根県広瀬町)で病没した。
経久は出雲守護代清定の子で、1508年に守護京極政経が没してからは、
事実上の守護となった。
以後、他国に積極的に侵攻し、最盛期にはのちに「十一州の太守」
と称されるほどに急速に領国を拡大した。
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