太田城攻め
天正十三年(1585) 羽柴秀吉vs根来衆・雑賀衆
<秀吉は得意の水攻めで、
敵対する紀伊の根来衆・雑賀衆を屈服させた>
現在の和歌山市太田来迎寺境内付近にあったとされる太田城は、
延徳年間(1489〜92)もしくは文明年間(1469〜78)に
築かれたといわれるが、確かなことは不明である。
この城が、史上著名となるのは、天正十三年(1585)の
羽柴秀吉による紀州攻めのさいに水攻めされたことによる。
秀吉による水攻めは天正十年(1582)の中国攻めでの備中高松城、
同十二年の小牧・長久手の合戦での美濃竹鼻城でも行われ、
秀吉の得意とする城攻め方法であった。
秀吉は、家康と結んだ根来・雑賀の征討をはかる
天正五年(1577)織田信長は宿敵石山本願寺の門徒である
雑賀(さいか)衆の討滅作戦を行った。
雑賀衆は、現在の和歌山市周辺にあって、水軍を擁し、
また大量の鉄砲を製造してこれを駆使する武力集団としての性格が強かった。
信長はこのとき雑賀衆を降伏させたが、
これを完全に支配下に収めることはできなかった。
天正十二年(1584)四月の小牧・長久手の合戦では、
秀吉は織田信雄・徳川家康と尾張を主戦場として戦った。
このとき、両者はたがいに敵軍の動きを牽制するため、
遠隔地の武将と同盟し、軍事的な連携をとった。
家康らは紀伊の雑賀衆・根来(ねごろ)衆と結び、
尾張に出陣中で秀吉が留守となった大坂城を脅かすべく、
雑賀衆らに兵を動かすことを依頼し実行させた。
同年十一月に織田信雄と和睦して合戦を終結させた秀吉は、
敵対行動を示した雑賀衆等を征討するため、
翌十三年三月二十一日に大坂城を出陣した。
その日のうちに早くも秀吉の先方軍は根来衆の拠った和泉千石堀城を、
二十二日には積善寺城(しゃくぜんじ いずれも大阪府貝塚市)を落とし、
二十三日には根来衆の根拠地である紀伊根来寺(和歌山県岩出町)に
攻め入って境内を焼き払った。
根来衆は、近年の発掘調査で明らかになるつつあるように、
大規模な堀を備えた軍事的機能と、僧兵を抱える多くの塔頭からなる巨大な寺院である。
秀吉による攻撃でも焼けずに残った根本大塔には、
この折の戦闘のなごりという弾痕が今も残され、その戦闘の激しさを物語る。
二十四日には、秀吉軍は同じく粉河寺(こがわでら 同粉河町)を焼亡させた。
そして、秀吉軍の侵攻以前に雑賀衆は内部分裂し、瓦解状態になっていた。
兵糧攻めから水攻めに転換 突貫工事で堤防を築く
残る拠点は、太田左近が守る太田城くらいとなり、
雑賀衆等の残党も追い込まれるように太田城の籠城に加わった。
太田城は平地に築かれた城郭であったが、
二百メートル四方余の規模を有して、周囲に深い堀を巡らせ、
要所には櫓、虎口を備えていたと伝えられる。
城には太田左近以下、五千余人が籠城したが、
女子供も少なからず加わっていたようである。
同月二十五日、秀吉は現和歌山市内の土橋城に本陣を置き、太田城攻略に乗り出した。
秀吉は、はじめ堀秀政らの軍を太田城に差し向けたが、
紀ノ川の渡河点に待ち伏せした籠城軍の鉄砲掃射により
五十一人が討ち取られてしまった。
力攻めよりも持久戦をとることにした秀吉は、
当初は城の周りに厳重に柵を巡らせて兵糧攻めにする予定にしていた。
しかし、計画を変更して水攻めにすべく紀ノ川の分流を堰き止め、
城を取り囲むように延長約六キロ余に及ぶ堤防築造に着手した。
堤防は高さ四メートル前後、幅は三十メートルの規模に及んだという。
秀吉は、昼夜を問わぬ突貫工事で四月五日以前に堤防を完成させた。
堤防内に流し込まれた水は折からの大雨によって増水し、
またたくまに城を泥水の中に孤立させた。
城中では泥水の流れ込むのを防ぐために、防壁を築いたという。
城を取り巻く堤防と太田城の間は、鉄砲の射程距離から離れていたため、
籠城軍は反撃するにも、なす術がなかったという。
秀吉自身も、太田城が数日で落ちるであろうと目論んでいたようであるが、
城の守りは堅くなかなか落城にはいたらなかった。
秀吉は、小西行長に命じて堤防の内に船をいれ、船から城への攻撃を仕掛けた。
一説によれば、籠城軍も泳法に手慣れた者によって
船底に穴をあけるなどの抵抗を試みたという。
籠城一か月のすえ、太田城がついに陥落
籠城も一か月近くになり、援軍の望みもなく、
ついに二十二日に城内の女子供が退去、
翌二十三日には城将五十三名は磔にされたうえ、その首は摂津阿倍野に晒され、
討たれた城将の亡骸は、旧城内に三か所に分けて葬られた。
そのうちの一つは小山塚と呼ばれ、現在城跡の北側に石碑が建っている。
秀吉は二十四日に陣払いをし、翌二十五日には大坂城に戻った。
太田城跡は、来迎寺境内に石碑が建つのみであるが、
付近の大門川に架かる大門橋は太田城の大門の跡であるとされる。
この大門を移したと伝わる薬医門は、現在和歌山市内の大立寺山門となっている。
一方、太田城攻めのさいに築かれた堤防は、
現在も城跡の北方に位置する和歌山市出水に一部が残されている。
この堤防もかつては五十メートルほどの長さにわたって残されていたが、
近時の破壊をうけて壊滅寸前の状況となっている。
次回予告 秀吉 統一への道 四国制圧
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