2008年03月11日

戦国百科 合戦 小牧・長久手の戦

秀吉 統一への道

小牧・長久手の戦
天正十二年(1584) 徳川家康vs羽柴秀吉



<信雄・家康の反秀吉戦線に敗北した長久手の戦いは
 秀吉に、家康に対する負い目を残した>



天正十年(1582)の本能寺の変後、織田信長の次男信雄は
尾張・南伊勢を領し、翌年の賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦時には
羽柴秀吉とともに異母弟にあたる信孝を滅ぼした。
当初、秀吉と信雄は良好な関係にあったが、
旧信長宿老らを粛清・懐柔し畿内を中心に勢力拡大をはかる
秀吉の行動に対して、信長の後継者たらんとする
信雄の不満は日に日に増していった。


織田信雄、秀吉攻略のため徳川家康と結ぶ

天正十二年(1584)三月三日、信雄は、家老津川義冬、岡田重孝、浅井田宮丸を
居城の長島城(三重県長島町)において、彼らが秀吉に内通したとの嫌疑で粛清した。
つづいて家老の居城であった松ヶ島城(同松坂市)、
星崎城(名古屋市南区)などにも攻撃をくわえ、ただちに陥落させた。
そして、秀吉方に属する関一政の伊勢亀山城(同亀山市)攻略に
家臣佐久間信栄を差し向けた。
また、四国の長宗我部元親、紀伊の雑賀衆にも連絡を取り、
大坂城の秀吉に対して背後から牽制を求めるようはかり、
越中の佐々成政に対しては、秀吉方である前田利家領への侵入を依頼している。
さらに、かつて父信長の同盟者であった徳川家康に援軍要請を行った。
これに応えて家康は尾張に赴き、信雄とともに三月十五日、
小牧山(愛知県小牧市)し本陣を構えた。

一方秀吉は、美濃大垣城主池田信輝、同金山城主森長可を味方につけ、
越後の上杉景勝に対して美濃・甲斐周辺での家康領の撹乱を依頼した。
信雄領の北端に位置する犬山城(同犬山市)は当時信雄の重臣、
中川定成の居城であったが、定成は伊勢方面での戦闘に加わるべく
出陣中で城主不在の状況にあった。
この隙を衝くように三月十三日、池田信輝は犬山城を攻撃して占拠し、
尾張侵攻の橋頭堡とした。


岡崎城侵攻のもくろみを家康は見破る

秀吉は二十一日になってようやく大坂を発し、二十七日に犬山城に到着した。
すでに小牧山周辺では信雄・家康軍が砦を築いていて、
周到な防備をしいた状況にあった。
これに対して力攻めを行えば多くの犠牲が出ることは必定であり、
秀吉も持久戦の覚悟で、多くの砦を設け、各武将に守備させた。
両軍間では時折小競り合いこそ生じたが、
大々的な戦闘にはいたらず、にらみ合いの状態が続いた。

この膠着する戦線を打開すべく、信輝、長可は別動隊を指揮して
家康の本拠である三河侵攻作戦を秀吉に進言した。
これは、家康の留守で軍備が手薄な岡崎城を攻略し、
家康と本国との連絡を絶つことを第一の目的とした。
家康が本国救援のために軍を動かして小牧山を離れたところで、
会戦におよび、いっきに勝敗を決しようとするものであった。
当初はこの作戦に難色を示した秀吉も、ついには甥の三好秀次を大将に、
軍監として堀秀政をつけることで作戦の決行を許可した。


四月六日夜半、小牧山の東方を大きく迂回して、
秀吉軍別動隊は三河に向かって進軍を開始した。
大軍による隠密裡の行軍は少なからぬ時間の浪費につながった。
さらに九日未明には、池田軍は素通りも可能であった三河国境に程近い
岩崎城(同日進市)をわざわざ攻略し、進軍を遅らせてしまった。

一方の家康はこの三河侵攻作戦を事前に察知し、
八日に小牧山を出陣、いったん小幡城(名古屋市守山区)に入り、
翌九日早朝、白山林で休息中の三好秀次軍に奇襲をかけた。
思わぬ奇襲をうけた秀次軍は総崩れとなり、敗走した。

岩崎城の池田軍と最後尾の三好軍の中間にいた堀秀政は三好軍の敗走を聞くや
白山林にとって返し、さらに檜ヶ根の丘陵上に布陣した。
そして、三好軍を追撃する家康軍の榊原康政らの軍を待ち受けた。
勢いに乗って進軍を続ける榊原軍らは秀政の鉄砲による
一斉射撃をまともにうけて離散した。
この隙に秀次・秀政は犬山方面に撤収した。
これに遅れて信輝・長可軍も北方に退却するが、
途中で富士が根を中心に布陣する家康本隊に遭遇した。
ここで両軍入り乱れての激戦が展開され、
正午頃には長可は鉄砲で狙撃されて討死し、
信輝はその嫡子之助とともに家康軍に討たれてしまった。
信輝・長可軍を壊滅させた家康は夕方には小幡城に撤収した。

一方、秀吉は自軍の敗戦をその日の正午頃にしり、
ただちに長久手方面に出陣する。
しかし、時すでに遅く、家康軍が撤収した後だったので、
小幡城近くの龍泉寺に陣を張り、翌朝の攻撃に備えた。
ところが秀吉との決戦を避けるべく、
当の家康はその夜のうちに小牧山に引き上げてしまったのである。


家康に負けた秀吉、信雄と和睦する

長久手方面での戦闘は家康・信雄軍の勝利となるが、
その後は再び小牧山周辺で両軍の対峙が続く。
しかし、秀吉軍は西美濃、北伊勢方面での戦闘により、しだいに信雄領を侵略し
ついにはその居城である長島城にも肉薄する勢いをみせた。

十一月十五日、信雄は伊勢矢田河原(三重県桑名市)において
単独で秀吉と和睦してしまう。

これによって出兵の名分を失った家康は時刻に撤退を余儀なくされた。
ここに小牧・長久手の合戦は終結するが、
天正十四年(1586)に上洛し、秀吉の軍門に降るまでのあいだ、
家康は本国にあって臨戦態勢を保持していたのである。









次回予告 秀吉 統一への道 太田城攻め






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posted by そるらっぴー at 21:44| 埼玉 ?J| Comment(0) | TrackBack(1) | 秀吉 統一への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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