2008年03月06日

戦国百科 合戦 北庄城攻め

秀吉 統一への道

北庄城攻め
天正十一年(1583) 羽柴秀吉vs柴田勝家



<賤ヶ岳で大敗し、居城北庄城に落ちのびた勝家
 秀吉の大軍に囲まれ、激闘の末に自刃する>



「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に、のき佐久間」と、
織田家重臣の役割を歌った小唄が『翁草』巻六に載っている。
木綿はきれいではないが、当時重要な必需品であった。
秀吉は木綿のような必要な人材であり、
突撃するときの号令で表された柴田勝家は、
合戦に欠くことのできない人物ということである。
信長亡き後、この二人が後継者をめぐって争うことになった。
(ちなみに五郎左は丹羽長秀、米のようになくてはならない人物。
 佐久間は佐久間信盛、退却戦で最後尾である殿軍を得意とした。)


日々権勢を増す秀吉に反秀吉派も結束を堅める

織田政権下で、勝家は筆頭家老として自他共に認められる存在であった。
対して秀吉は新参者であったが、徐々にその力を発揮し、
方面師団長にまで抜擢されていった。
信長がなくなる直前、勝家は上杉を、秀吉は毛利という具合に、
敵対する武将のなかでも一、二を争う強敵を任せられる存在でもあった。

本能寺の変(1582)ののち、秀吉はいち早く、
明智光秀を討ち果たし、発言力を増してゆく。
二人の立場を明確にしたのが、信長の後継者を決定する清洲会議であった。
会議は秀吉の主導権で進み、勝家の意見はことごとく退けられていった。
この会議の後、秀吉は織田家後継者三法師(さんぽうし 信長の嫡孫)の
後見役と称して権勢を高めていく。

日々権勢を増してゆく秀吉に対し、
信長の三男神戸信孝(かんべのぶたか)と勝家は疑念を抱く。
信孝は、勝家との絆を強めるため、戦国随一といわれた美貌の、
叔母お市の方を嫁がせ、共同戦線を張った。
さらに、反秀吉派の滝川一益、長宗我部元親、佐々成政らとの結束も深めた。
対して秀吉は信長の次男信雄を味方に引き入れ、対決姿勢を強めたのである。

山城の山崎宝寺城(やまざきたからでら 京都府大山崎町)を拠点とする秀吉と、
越前北庄城(きたのしょう 福井市)を拠点とする勝家。
両者の大きな違いは、冬期の行動範囲である。
勝家の本拠北陸は、冬の間雪に閉ざされてしまう。
天正十年(1582)冬、秀吉は江越峠が雪により途絶したとたん、
長浜城(滋賀県長浜市)を包囲した。

長浜城には、勝家の甥勝豊(かつとよ)が入っていたが、
病床にあり勝家の援軍も期待できないため、戦わずして秀吉に降った。
この城が秀吉側に奪還されたことにより、
勝家は近江・京への足掛かりとなる重要拠点を失ってしまった。
秀吉はこののち、神戸信孝、滝川一益を攻撃している。
時ここにいたり、双方ともに外交合戦を展開。
勝家は前将軍義昭(よしあき)と毛利に、
秀吉は上杉景勝や本願寺に出兵を働きかけている。


大軍に城兵はあらかた逃散 落城前夜に最後の宴

天正十一年三月、勝家は雪を割り近江へと出兵した。
呼応して、岐阜城の信孝も挙兵。
大垣城にいた秀吉は、柴田隊の佐久間盛政が、
中川清秀を討ち果たしたことを聞き、急遽軍を移動させた。
両軍の決戦は賤ヶ岳(しずがたけ 滋賀県木ノ本町)で行われ、
秀吉の大勝利に終わった。

盛政は、勝家の子勝敏とともに越前に逃れたが、農民に捕らえられてしまう。
勝家も、わずかの手兵とともに北庄城へと落ちのびていった。

翌日、秀吉は前田利家が守る越前府中城(福井県武生市)を無血攻略した。
利家は、そのまま秀吉方先鋒として北庄城攻めに加わり、
あわせて不破光治、徳山則秀らの勝家与力たちまでもが降伏している。

秀吉は、その勢いで勝家の居城北庄城を取り囲んだ。
前田利家たちの降伏を見た城兵はあらかたが逃散し、
最後まで城内に立てこもった兵力は、わずか二百人あまりとなっていた。

勝家の居城北庄城は、北の九頭竜川を外堀とし、
南の足羽川と吉野川の合流点を本丸としていた。
現在の福井城本丸の南にある柴田神社あたりと伝わる。
天守は、石蔵を含め九重であったと各種資料には見え、
ルイス・フロイスはその書簡で、安土城に比肩する壮大な城であったと書いている。
天守の屋根は石瓦で葺かれていた。

この城に襲い掛かった秀吉軍は、圧倒的兵力にものをいわせ、
ニの丸、三の丸と陥落させていった。
落城は時間の問題とみた勝家は、妻お市と娘達に城を出ることを勧めた。
だが、小谷城での落城を経験したお市の方は強くそれを拒んだため、
三人の娘達だけを落とすことになった。
長女茶々はのちの淀君、三女お督(ごう)は徳川秀忠に嫁ぎ、
徳川家光の生母となり歴史にその名を残すことになる。
(次女のお初は京極高次に嫁ぐことになる。)

北庄城の最後の夜、城内では決別の宴が張られた。
酒を酌み交わし、楽器を奏で、歌や踊りが催された。
勝家は最後まで籠城した部下たちをおおいに労ったのである。

翌早朝、秀吉軍は総攻撃を開始。
激闘の末、ついに本丸へ乱入、天守へと迫った。
勝家は天守に火を放ち、お市と一族の子女を殺した後、最上層で自刃し果てた。
殉じる家臣は約八十人であった。

北庄城落城後、秀吉は勝家の遺領を、丹羽長秀、前田利家に与えている。
勝家とともに秀吉に敵対した神戸信孝は、兄信雄に岐阜城を攻められのち自刃。
滝川一益は降伏し、両者の所領のほとんどは、信雄に与えられた。

柴田勝家の死により、織田軍団内で反秀吉勢力は一掃された。
ここに、秀吉は信長の後継者の座を確かにしたのである。









次回予告 秀吉 統一への道 小牧・長久手の戦






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posted by そるらっぴー at 21:13| 埼玉 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 秀吉 統一への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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