賤ヶ岳の戦
天正十一年(1583) 羽柴秀吉vs柴田勝家
<琵琶湖北畔の賤ヶ岳で秀吉と勝家が激突
近習七本槍の奮戦で秀吉が勝利する>
前年の山崎(京都府大山崎町)の合戦で明智光秀を降した羽柴秀吉であったが、
現実にはまだ天下を手中に収めたわけではなかった。
本能寺の変直前の順位からいえば、秀吉はまだ一方面軍の将にすぎず、
柴田勝家や丹羽長秀など上位にランクする者たちがたくさんいた。
しかし、信長の弔い合戦をすませたという意味では、
彼らにとって秀吉は無視できる存在ではなかった。
信長の後継者を決定することは重要課題であり、難題でもあった。
信長の後継者を名乗り 秀吉、柴田勝家と対立
頭首信長なきあと、本来なら長男信忠が跡を継ぐべきであるが、
その信忠自身も信長と命運をともにしている。
したがって、順序としては次男の信雄が跡目を継ぐのが普通であるが、
戦国の世の力関係は必ずしもそうはならなかった。
信長との信頼関係からいえば、次男信雄ではなく、
三男信孝が衆目の一致するところであった。
しかし、いずれもひとり立ちして天下を切り回していくだけの器量はない。
組織票を集め得た者が頭首となれることは、
今も当時もかわりがなかったのであろう。
天正十年(1582)六月二十七日の清洲城(愛知県清洲町)で開かれた清洲会議では、
家督順位を主張する信雄と信孝を推す柴田・滝川組とに二分されつつあった。
しかし秀吉は、長男信忠の嫡男三法師(さんぽうし のちの秀信)こそ
織田家の跡取りとしてふさわしいと自らの政権構想を主張した。
結局、宿老四人(柴田、丹羽、羽柴、池田)が三法師を補佐して
天下の政道を行うこと、信長の遺領配分で北近江を柴田に譲ることで決着した。
しかし、いったんは和解したかのようにみえたこの盟約も、
深層では新たな火種を産んでいた。
勝家は新たに得た秀吉のもとの居城の長浜城(滋賀県長浜町)に甥の勝豊をいれた。
これに対し秀吉は、十二月九日、信雄を迎えることを大義名分に、
勝家が雪のため出陣できないことを見計らって五万の兵を率いて長浜城を包囲。
そして、同じ勝家の甥佐久間盛政と対立し、
叔父勝家ともうまくいっていなかった勝豊の心情を巧みに利用して、
秀吉は勝豊を調略した。
秀吉はそのまま美濃に入り岐阜城を包囲し、
十二月二十日に三法師を手に入れ信孝を降した。
秀吉軍と勝家軍が対峙 佐久間盛政の計算狂う
翌天正十一年(1583)正月から秀吉は伊勢の滝川一益攻めを開始した。
反秀吉派の旗頭勝家は、越前の雪解けとともに二月二十八日に
先鋒隊三千として前田利長を出動させた。
ついで三月三日、盛政と前田利家が八千五百を率いて出発。
本隊の勝家は九日に二万を率いて北ノ庄(福井市)を出陣した。
北伊勢に出陣していた秀吉は勝家出陣の報に、
信雄と蒲生に北伊勢を任せて安土に戻った。
三月十一日、三万の兵を率いた秀吉はまず佐和山城(同彦根市)から長浜城に入った。
十二日、北近江に進出した勝家は北国街道柳ヶ瀬(同余呉町)に布陣し、
盛政に行市(ぎょういち)山に陣させ、自らは内中尾山に本陣を置いた。
十七日、秀吉は木之本まで陣を進め田上山に羽柴秀長、
前線には東から東野山に堀秀政、東野に小川祐忠、
堂木山に山路政国、神明山に木村重茲を配した。
また、余呉湖の南二列目には東から岩崎山に高山右近、
尾野路山に中川清秀、賤ヶ岳(同木之本町)に桑山重晴を配した。
柴田側は、滝川と信孝が秀吉の背後を衝くのを待っていたが到着せず、
秀吉側としては兵力が上回っているものの決定的な戦術に欠けていた。
結果、戦線は余呉湖を挟んでひと月余り膠着状態にあった。
そんななか、秀吉との和約を破って信孝は兵をおこし、
氏家行広、稲葉一鉄とともに秀吉の背後を衝こうとする動きに出た。
これに憤慨した秀吉は安土に人質としていた信孝の母を殺させ、
四月十六日、二万の兵を率いて岐阜城へ向かった。
ここに前線の均衡状態は崩れた。
十七日、大垣城に到着し、二十日をもって岐阜城に総攻撃をかけるべく
準備に入っていた秀吉であったが、盛政は秀吉の動きを察し、奇襲を考えていた。
二十日未明、余呉湖を大きく迂回した盛政は大岩山の中川清秀を打ち破った。
中川は討死。ついで岩崎山も落とした。
勢いに乗る盛政は、深追いに反対する勝家に背き、
秀吉が岐阜から戻れないことを確信して戦線を拡大していった。
しかし、秀吉は大雨のため足止めを食い岐阜には到達していなかった。
賤ヶ岳からの急報に岐阜に一万五千の兵を残し、
二十日午後四時、急遽戦場へ戻ることにした秀吉は、
五十四キロの行程を五時間で駆け抜けるという早業に命運をかけた。
戦場では、高山が木之本まで退却し桑山も退却しかけて、
本陣田上山の秀長軍の間近まで盛政の戦線が迫り総崩れかと思われた。
その前線に戻るはずのない秀吉軍が現れた。
盛政はこの大軍を目にして、柴田勝政に殿(しんがり)をまかせ自らは退却を始める。
再起不能を確信 越前の雄、勝家はお市と自害
清水峠まで陣を下げた盛政に対し、秀吉は一万五千全軍を三方面に分け総攻撃をかけさせた。
このときの勝政攻めに秀吉は近習小姓をあてた。
「よごこのはたにて七本槍合」として有名な七本槍である。
一番槍の手柄は福島正則であった。
ついで脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、片桐且元、糟屋武則、加藤清正が手柄をたてた。
勝政も果敢にこれを防戦し佐久間軍と権現坂で合流した。
しかし、突如離脱した前田利家により、柴田軍はふたたび総崩れとなった。
絶望した勝家は再起を図るため越前に向かった。
秀吉軍はそのまま追走を続け、前田、不破を降し二十三日に北ノ庄を包囲した。
最後を知った勝家は、三人の娘を秀吉に託し、お市ともども自害して果てた。
ここにまたひとり戦国の雄が世を去った。
賤ヶ岳の合戦はこうして幕が引かれた。
次回予告 秀吉 統一への道 北庄城攻め
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