本能寺の変
天正十年(1582) 明智光秀vs織田信長・信忠
<家臣明智光秀に本能寺を急襲され、
信長は天下統一の業なかばに斃れた>
天正十年(1582)は日本史にとっては怒涛の年であった。
そして、織田信長にとっては絶頂期であり、また悪魔に魅入られた年でもあった。
その年の元旦の安土城は、まさかの事件など影もないほど、
とても賑やかな一日であった。
織田一族、近臣の者たちをはじめ諸国の大名や、
属将たちが信長のもとに参集していた。
かれらは本丸御殿での参賀をすませたのち、
天皇を迎えるための御幸の間を拝見し、天主へと案内された。
まばゆいばかりの数々の部屋と調度を見て歩いた。
しかし、その夢見心地もつかのまの出来事であった。
信長、甲州を平定 さらに中国制圧を図る
武田信玄の死後、動揺が隠せなかった甲斐に新たな動きが出たのである。
二月一日に信玄の娘婿であった木曽義昌が信長に内通してきた。
好機とみた信長は武田討伐を嫡男信忠に命じて出陣させた。
三月二日にまず高遠城(長野県高遠町)を陥落させ、
十一日には新府城(山梨県韮崎市)を落として勝頼を自刃に追い込んだ。
ここに名門武田氏は滅亡した。
信長は安土城から頸検分に向かった。
徳川家康は信長の甲州平定にともなう視察に対し、上九一色村で富士見物をした
信長をその帰路の駿府・浜松・岡崎で手厚くもてなした。
四月十三日、信長は家康のもてなしに返礼する約束をして、
清洲(愛知県清洲町)に戻った。
思えばすでにこのときに、大きな歯車は少しずつ動き始めていた。
四月二十一日、安土城に戻った信長のもとに、朝廷から勅旨が下向してきた。
武田という大きな後ろ盾を失った朝廷が、
足利に変わる政権として信長を認めざるを得ない立場に陥ったからであった。
しかし、信長は朝廷が示した征夷大将軍の地位に応えることはなかった。
信長がめざしていたのは関東の平定でもなく、
武家の棟梁として幕府を開くことでもなかったからであった。
五月十一日、四国への渡海を決意した信長は準備を進めていた。
十五日、甲斐での約束どおり家康と穴山信君(梅雪)が安土に到着した。
この饗応約に惟任(これとう)日向守明智光秀が任じられた。
『信長公記』によれば、饗宴は能、幸若舞を見物しながら
京、堺の珍物を並べられた膳で楽しく過ごしたことが分かる。
この饗宴は二十日までつづいた。
一方、十七日、中国方面軍として備中高松城を囲んでいた秀吉は、
信長のもとに毛利輝元動くの報を伝えた。
信長はこれに応えるため自ら親衛を率いて出陣することにした。
その初動隊として、光秀に、細川忠興(ただおき)、池田恒興(つねおき)、
高山重友、中川清秀、筒井順慶(じゅんけい)らとともに出陣するよう命じた。
光秀は早々に坂本城(滋賀県大津市)へ戻り、
二十六日には亀山城(京都府亀岡市)に帰って出陣の準備を整えた。
しかし、ここで光秀は奇妙な行動に出る。
二十七日、光秀は愛宕山(京都市右京区)に登り、
愛宕権現社で幾度となくみくじを引いたという。
戦勝祈願ともとれるが、光秀の心の中にはすでに、
ひとつの大きな黒い塊がうごめきはじめていいたのである。
翌二十八日、光秀は出陣が控えているにもかかわらず、
愛宕威徳院で連歌百韻を催した。
その発句で「ときは今あめが下知る五月哉」と詠んだ光秀に対し、
西坊(さいぼう)は「水上まさる庭のまつ山」と続け、
「花落つる流れの末を関とめて」と連化師紹巴(じょうは)は続けた。
決意を固めた光秀と諭そうとした紹巴。
本能寺前段のシーンとして有名なエピソードである。
しかし、真意はだれにもわからない。
「敵は本能寺にあり」光秀の謀叛に信長自害
二十九日、信長は出陣を前にして、いつものように、
小姓衆ニ、三十人を伴って、安土から上洛し本能寺に入った。
六月一日、本能寺では近衛前久(さきひさ)をはじめ、
四十人の公家たちが招待されて名物を披露した茶会が催されていた。
禁裏からは正親町親王の勅旨、甘露寺経元(かんろじつねもと)と
勧修寺晴豊(かしゅうじはるとよ)が使者として来ていた。
ここで信長が禁裏のもっていた作暦権に口出しをしたことで、
朝廷の怒りが頂点に達した。
このようななか、本能寺の変は断行されたのである。
信長が本能寺で宴を催していたころ、光秀は亀山で信長を討ち、
天下の主となるべき調儀を家臣たちに打ち明けていた。
そして明け方、亀山を出発した明智軍は、中国へ向かうと見せかけて
兵を反転し、敵は本能寺にありと京への入り口である老坂へと急進した。
七条口から京に入った光秀軍一万三千は、
西洞院通と油小路通に分かれ北上して本能寺に向かう。
六月二日、卯の刻(午前六時)本能寺は蟻の這い出る隙のないほどに取り巻かれた。
はじめは信長も小姓も町の喧嘩かと思っていた。
しかし、鬨の声が上がり御殿に打ち込まれた鉄砲の音を聞くにあたり、
信長は「是は謀叛か。如何なる者の企てぞ」と叫ぶ。
森蘭丸は「明智が者と見え申」と応えた。
信長は「是非に及ばず」と一言。
弓を取り小姓衆と最後の戦いに挑んだ。
厩では二十四人が討死。
御殿では森家三兄弟蘭丸・坊丸・力丸をはじめ二十三人が討死。
これまでと観念した信長は「女はくるしからず、急ぎ罷出でよ」と命じ、
自らは火が回る殿中奥深くに入り、自害した。
ここに天下に武を布くと生涯を戦に明け暮れた時代の
傑出児である織田信長は生涯をとじた。
御年四十九歳、まさに人間五十年であった。
光秀は本能寺襲撃後、妙覚寺から二条城に入った信忠を攻撃し、
京都所司代村井貞勝ともども自刃させた。
このあと、光秀は坂本城に帰り、中国から引き返す秀吉と最後の一戦を交える。
そして、十三日、山崎の合戦で敗れ、
三日天下ならぬ十一日間の天下を終えることになる。
次回からは、「秀吉 統一への道」として、
豊臣秀吉が天下を取るまでの合戦をたどって行きたいと思います。
次回予告 秀吉 統一への道 山崎の戦
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