2008年02月04日

戦国百科 合戦 天目山の戦

信長 統一への道

天目山の戦
天正十年(1582) 織田信忠vs武田勝頼



<信長の大軍が甲斐に侵攻、重臣にも裏切られた勝頼親子は
 最後まで奮戦するが、ついに自刃する>



天正十年(1582)安土の正月参賀はあまりに賑やか過ぎて、
百々橋からハ見寺へ登る石垣が人の重みで崩れ、
死者まででるというほどであった。

信長政権は磐石で、天下統一は時間の問題となっていた。


信長が大軍を派遣、高遠城の仁科盛信が討死

長篠の戦以後、武田氏は弱小化し、信長や家康を脅かす存在とは程遠く、
隣接する家康が勝頼にそなえていた。
信長は、熟した柿の実が自然に落ちるように、
武田氏の凋落を横目でながめていた。
それでも、やがてくるであろう信濃・甲斐征伐に備え、
おこたりなく事前準備を進めていたのである。

信長は、美濃苗木城主遠山氏を通じて、武田方の木曽義昌の内応を働きかけ、
家康は駿河江尻城主穴山信君に内応工作を仕掛けていた。
やがて、親族衆でありながら木曽・穴山両氏が内通、
甲斐侵攻の先導役を申し入れてきた。

これを聞きつけた勝頼は、木曽征伐のため信濃諏訪上原(長野県諏訪市)へと出陣。
対して信長は、甲斐侵攻の総大将に嫡男信忠(のぶただ)をあてた。
信忠軍は、美濃岩村城(岐阜県岩村町)をへて伊那口より進軍。
さらに飛騨口からは金森長親(かなもりながちか)らが、
駿河口からは徳川家康が、関東口からは北条氏政(ほうじょううじまさ)が侵攻。
総勢十八万八千を数える大兵力であった。

勝頼は、長篠の敗戦後、織田・徳川の侵攻に備えて、
信玄以来の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を捨て、
新府城(しんぷ 同韮崎市)に本城を移していた。
新府城は、西を流れる釜無川の高さ約七十メートルの絶壁と
東側の侵食谷の間の小山に、天険をフルに利用して築かれている。
さらに、土塁と空堀が千五百メートルにわたって設けられていた。

信忠軍の先鋒隊は、飯田城(長野県飯田市)大島城(同松川町)を戦わずして占拠。
ついで、勝頼の弟仁科盛信(にしなもりのぶ)の守る、
高遠城(たかとお 同高遠町)を囲んだ。
高遠城は三峰川と藤沢川の合流点に築かれており、
本丸は三峰川の断崖上にあった。
信忠本隊は大手口から攻め、森長可、河尻秀隆らの軍勢が搦手から攻め立てた。
城兵も激しく抵抗したが、ついに落城する。
仁科盛信は自刃して果てた。
この戦闘での武田軍の犠牲者は四百余人であった。


重臣にも裏切られ逃亡途中でついに自刃

勝頼は、盛信の討死と高遠落城を新府城で聞いた。
新府城は未完成だったため籠城を断念。
真田昌幸の居城上野吾妻城に逃れて再起を期すことにした。
だが、譜代の小山田信茂(おやまだのぶしげ)に説得され、
退却先を信茂の居城岩殿山城(山梨県大月市)へと変更した。

完成間近の新府城に火をかけ、勝頼は逃亡を開始。
途中、大善寺(同勝沼町)で一泊し、岩殿山をめざした。
従うのは、妻子のほかわずか五百ほどの兵だけであった。
勝頼が笹子峠に差し掛かると、突如鉄砲が撃ちかけられた。
相手は小山田信茂であった。
勝頼は重臣にも裏切られ、進むことも退くこともできず、
天目山(同大和村)に逃れた。
途中、逃亡する兵があとを断たず、天目山麓の田野まで従ったのは、
わずか四十四名の兵と婦女子二十三人のみとなっていた。

このとき、信忠軍の先鋒、滝川一益の軍が迫ってきた。
北条氏政の妹で十九歳の勝頼夫人は自刃。
勝頼と嫡男信勝は最後まで奮戦したが、ついに自刃し、
ここに名族武田氏も滅亡したのであった。(『信長公記』)
なお、『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)では、
勝頼は喉と脇腹に二本のやりをうけ息絶えたと記録している。


紹喜が「火も自ずから涼し」をとなえた恵林寺焼討ち

勝頼親子の首は、進軍途中の信長に届けられ、
実検ののち京都四条大橋のたもとに晒された。
信長が甲斐に進軍したのは、すでに武田氏が滅亡したのちで、
新府城の跡や躑躅ヶ崎館を見物している。
この間、信長は近江の六角義治をかくまった罪を問い、
信忠に命じて武田信玄の菩提寺である恵林寺(同塩山市)を焼討ちさせている。
このとき、住持の快川紹喜(かいせんじょうき)が
「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という有名な言葉をとなえたという。

この戦の論功行賞で信長は、甲斐の本領河内領を投降した穴山信君に安堵し、
そのほかを河尻秀隆に与えた。
さらに、駿河を徳川家康に、信濃四郡を森長可に、
信濃二群、西上野および関東管領職を滝川一益に与えている。
ついで、十一か条の掟書を定め、
畿内と同様の支配を信濃・甲斐の住民に示している。

武田征伐を終えた信長は、富士見物と称して、
甲斐から東海道へぬけ、安土へと帰還した。
途中、駿河を拝領した家康の総力を挙げた接待をうけ、
富士の風穴、白糸の滝ほか、駿河、遠江の名所旧跡を見物しながらの遊覧旅行であった。

武田氏滅亡により、東国からの脅威は一掃されたことになる。
天下統一に残された強敵は、中国の毛利氏と北陸の上杉氏のみとなった。

安土に帰還した信長に、朝廷から戦勝祝いの使者が訪れた。
朝廷は「征夷大将軍、関白、太政大臣」のいずれも望むままにと伝えてきたのである。
しかし信長は返答を保留したまま、三ヵ月後に本能寺の変で生涯を閉じた。
宣教師に「余が国王で内裏である」といった信長の真のねらいは、
永遠に閉ざされてしまったのである。






次回予告 信長 統一への道 高松城攻め






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posted by そるらっぴー at 21:33| 埼玉 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 信長 統一への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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