鳥取城攻め
天正九年(1581) 羽柴秀吉vs吉川経家
<山陰地方の毛利氏の砦鳥取城を、秀吉は得意の兵糧攻めで攻略
因幡から毛利勢力を一掃した>
秀吉は、天正八年(1580)一月に三木城(兵庫県三木市)を攻略した後、
四月に英賀(あが 同姫路市)、山崎(同山崎町)を攻撃した。
ついで但馬に入り、播磨についで但馬の大部分を制圧した。
六月には山崎の宇野氏を滅ぼし、因幡、伯耆、まで軍勢を向けた。
鳥取城の守りは吉川経家、秀吉は徹底的包囲網
因幡守護の山名豊国は鳥取城(鳥取市)にあって毛利氏に属していたが、
但馬の山名氏が秀吉の軍門に降ったのをみて、家臣の反対を無視して秀吉に投降した。
九月に山名豊国が城を出ると、重臣達は反秀吉を掲げて結束し毛利氏に援助を求めた。
山陰方面の主将であった吉川元春に使者を立て、
毛利氏から鳥取城に守将を送り込むように願ったのである。
吉川氏は牛尾元貞(うしおもとさだ)を送ったが但馬で負傷、
ついで市川雅楽允、朝枝春元に交代した。
山名氏の重臣で主導的立場にあったのは、中村春続と森下道誉であった。
彼らは確実に援軍が差し伸べられるように、
有力な吉川氏の一族を送り込むように求めた。
吉川元春はこの要請に応え、福光城(ふくみつ 島根県温泉津町)の吉川経家を指名した。
経家は帰還できないことを覚悟し長男に譲状と置文を与えて、
天正九年(1581)二月二十六日に家臣四百余と出立、
元春に別れを告げて三月十八日に鳥取城に入った。
入城後、経家はただちに賀露港(かろ 鳥取市)との間に丸山城(鳥取市)を築き、
奈佐日本助(なさにほんのすけ)、佐々木三郎左衛門に五百名で守備させた。
丸山と鳥取の間の雁金山(かりがねやま)には、
塩冶高清(えんやたかきよ)をいれ、賀露港との連絡に万全を期した。
鳥取城の守備には吉川氏の四百名と国衆千名が入り、
装備は十分であったが兵糧が不足していた。
経家は密偵を放ち織田軍の動きを探った。
そして、秀吉の来襲は七月から十月の間と予想し、その分の兵糧を元春に依頼した。
経家の父経安も元春に費用として銀子百枚を贈り、
多少の兵糧と応援部隊が鳥取城へ送り込まれた。
一方、秀吉はそれ以前から、若狭から船を回して因幡国内の米を高値で買い付けていた。
そのため鳥取城内に備蓄されていた兵糧も売り払われていた。
そうしたうえで六月二十五日、大軍で姫路を出発し鳥取に着くと、
包囲網の築城にかかり、七月十二日には一応完成した。
それは、鳥取城の東千四百メートル、ほぼ同じ標高の太閤ヶ平に本陣をおき、
鳥取城を東西南北約四キロの範囲で封鎖した施設であった。
本陣は東西五十メートル、南北四十メートルのほぼ方形で土塁と空堀がめぐり、
南と東に虎口を開き、南西に櫓台がある。
周辺は駐屯用の削平地が多数設けられ、
鳥取城側へ二百メートルほどの尾根端三か所に陣地が設けられた。
それらを連結して南北方面に尾根と谷を横断して、
延々と七百メートルも空堀と土塁で連ねている。
これは鳥取城からの攻撃に備えたもので、土塁上は土塀であった可能性が高い。
また、鳥取城の北と南の尾根上にも陣地を連結し、
城の西側には袋川と千代川の間(現市街地)に陣地を構築した。
これらは、鳥取城側はもとより、西からの毛利の援軍に対して
背後にも堀と土塁を設け櫓を上げたものである。
もし援軍が来れば、この陣地を拠点に迎撃した後、追撃するつもりであった。
陣地は長期の持久戦を考慮して町屋のように造られた。
播磨の三木城での経験をもとに一段と進化した布陣であったと推定できる。
秀吉の「喝殺し」作戦 飢餓のため城内は修羅場
秀吉の「喝殺し」作戦が実施された。
細川藤孝の水軍は攻撃軍に兵糧を運ぶとともに、
千代川河口に毛利水軍を襲い、鳥取城内への輸送船を奪った。
ついで伯耆泊城(とまり 鳥取県泊村)を攻め、多数の輸送船を破壊した。
宮部継潤は鳥取城近くのさいのたわを占拠した。
吉川側は、雁金山の塩冶氏が丸山城に逃れて鳥取城と丸山城の連携が絶たれたため、
兵糧搬入ルートは途絶えて鳥取城は孤立した。
吉川元春は羽衣石城(うえし 同東郷町)攻撃中で、
祝山城(岡山県津山市)へも救援の兵を出しており、
毛利氏、小早川氏も宇喜多氏と全面戦争中であったため、鳥取城救援は無理であった。
城内では、経家以下の籠城兵に加え、秀吉が城へ追い込んだ
周辺住民もいたので食糧は尽きた。
人々は牛馬、稲株、草根を食べ、ついには死人の肉までも奪い合った。
餓死者が続出し、冬までの籠城が不可能と判断した元春は、
家臣の野田春美に終戦交渉を命じ、堀尾吉晴、一柳直末のあいだで話し合われた。
秀吉側は、森下、中村、塩冶、佐々木、奈佐の切腹を要求し、
経家は自身の自害をもって全員の助命を求めた。
両者はたがいに譲らず、ついに経家と五名の自害で決着がついた。
十月二十四日、野田は秀吉と誓書を交換し、五名は切腹した。
翌二十五日、経家は自身の切腹により諸人を助けるのは
一門の名誉であると遺書をしたため、堀尾の臨席のもと、自害して果てた。
秀吉は城下に粥を用意して城兵をねぎらい、
まず吉川氏の兵を退城させ、ついで国衆を通した。
吉川氏の兵は杉原家次により護送され、鳥取を去った。
これにより因幡から毛利氏の勢力は一掃された。
二十七日、元春は経安に弔文を送り、
羽衣石城包囲の陣を固めて秀吉との決戦を画したが、
秀吉は決戦を避け、兵糧を搬入後引き上げた。
この戦いは秀吉の「鳥取の喝殺し」といわれ、
兵糧攻めの教本として名高く、戦いは経済力でするという、
秀吉の戦い方を代表するものである。
次回予告 信長 統一への道 天目山の戦
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