2008年01月17日

戦国百科 合戦 長篠の戦

信長 統一への道

長篠の戦
天正三年(1575) 織田信長・徳川家康vs武田勝頼



<長篠城を奪還すべく大軍で三河に進出した勝頼
 織田・徳川連合軍の新戦法に大惨敗を喫す>



天正一年(1573)に武田信玄が死亡すると、徳川家康は北三河奪還に動き、
奥三河の拠点長篠城(愛知県鳳来町)を開城させ、奥平氏を味方につけた。
さらに翌二年、北遠江の拠点犬居城(静岡県春野町)を攻めるが、
失敗に終わり、兵を帰している。

一方、武田家を継いだ勝頼は、信玄以上に駿河・遠江出陣を繰り返した。
そして同じく天正二年、信玄でさえ落とせなかった遠江随一の要衝
高天神城(たかてんじん 同大東町)を陥落させる。
これに対抗して家康は馬伏塚城(まむしづか 同浅羽町)を修築、大須賀康高を入れている。


勝頼軍の包囲を抜けて、援軍を要請した鳥居強右衛門

天正三年(1575)四月、武田勝頼は一万五千の軍を率い三河へと進出。
長篠城を囲み、二連木城(にれんぎ 愛知県豊橋市)、牛久保城(同豊川市)、
家康が入っていた吉田城(同豊橋市)を攻撃した。
そののち、奥平信昌を守将に五百の兵が籠る長篠城の総攻撃を開始した。

寒狭(かんさ)川と豊川の合流点の断崖上にある長篠城は、要害堅固な造りであった。
そのうえ城兵もよく守備し、大軍の攻撃にもちこたえたいた。

だが、兵糧が尽きはじめたため、鳥居強右衛門(すねえもん)が
単身敵中を突破して岡崎の家康のもとへ急を告げ、
救援を求めた。(『当代記』『三河物語』)

家康から救援派遣を聞いた強右衛門は、
家康や救援に来ていた織田信長の制止を振り払い、
吉報を報せるために長篠城へと戻っていった。
だが、武田方の兵につかまってしまう。

活よりは完全な包囲網を単身で突破した強右衛門の力量を買い、
援軍要請は失敗であったと告げれば召し抱えると約束する。

強右衛門は、従ったとみせて援軍到来を城兵に伝える。
怒った勝頼は、強右衛門を磔にしてしまった。(『三河物語』『武徳編年集成』)

信長と家康は、対武田騎馬隊を想定して綿密な軍議を開き、
武田軍を設楽原(したらがはら 愛知県新城市)まで誘い出す作戦を立てた。

決戦場所となった設楽原は、長篠城の南西約五キロの雁峰山(がんぽうざん)の
裾野の細長い台地で、連吾川という小川が流れていた。
織田軍三万、徳川軍八千の連合軍は、この川に沿って布陣したのである。


連合軍は騎馬隊を柵で阻止 鉄砲の三段連射で壊滅させる

織田・徳川連合軍は陣の前に堀と土塁を築き、
さらに三重の馬防柵を張り巡らせた。
柵の後方には、三千梃の鉄砲隊が控え、武田騎馬隊に備えていた。
連合軍の作戦は、正面から突撃してくる武田騎馬軍団を、
堀や柵という障害物で阻止し、その間に鉄砲で撃ち取ろうというものであった。

信長は、武田軍の主力が一斉攻撃に出てくるように、
鳶ノ巣山の砦守備隊を、金森長近、酒井忠次に攻撃させた。

勝頼は、長篠城監視兵の二千を残しただけで、
全軍を設楽原へと移し、連合軍と対峙したのである。

当時の鉄砲(火縄銃)は、銃口から火薬と弾丸を押し込まなければならず、
熟練者でも一分間にニ〜三発の発射が限界であった。
さらに、射程距離は五十メートル以下で、
それ以上になると極端に命中率は低くなった。

一方、騎馬武者のスピードは時速約四十キロ(一秒で十メートルほど)といわれる。
騎馬隊と戦う場合、相手の進撃速度をおとす工夫をしなければ、
ニ発目を撃つ前に自分が命を落としている計算になる。

連合軍の配置は、中央に織田方の滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、
左翼に同じく佐久間信盛、水野信元、そして右翼に徳川軍というものであった。

対して武田軍は、得意の鶴翼の陣を十三段構えに布いて真っ向から連合軍を望んでいた。
前日の軍議では、重臣たちが決戦を退け甲斐へ退却することを説いていた。
だが、若い勝頼は騎馬軍団の威力を盲信しており、
さらに信玄すら落とせなかった高天神城を陥落させた自負があった。
結局、重臣たちも勝頼を説得することはできなかった。

設楽原での戦は、連合軍右翼隊と武田軍左翼隊の衝突から開始された。
武田軍の誇る騎馬隊の先鋒山県政景は、連合軍に向けまっしぐらに突進した。
そのとき、織田軍鉄砲隊がいっせいに射撃を開始した。

戦闘部隊はほとんど壊滅。

ここまでは、武田軍も予期していた。
だが、次におこったことを理解する者はいなかった。
間髪いれずに次の弾が飛んできたのである。
さらに、休むことなく次々と武田軍に鉄砲があびせかけられた。

信長は、鉄砲三千梃を三隊に分け、一隊目が撃つ間にニ隊目は点火して構え、
三隊目は弾込めをするという、三段連射の交替制を実戦したのである。
まさに画期的な新戦法であった。

武田軍は、わけがわからず数度の突撃をくりかえし、
そのたびに損害を増していった。
武田軍は、山県昌景、馬場信房、内藤昌豊らの有力武将をはじめ、
一万余の死者を出す大惨敗を喫したのである。
勝頼は、主従わずか六騎で甲斐へ逃げ帰った。

長篠の敗戦により、武田勝頼の地位はいちじるしく低下し、
三河・遠江での勢力衰退を余儀なくされた。

対して家康は、二俣城(静岡県天竜市)を奪還するなど、
遠江・三河での勢力を回復し、駿河へ進出するほどとなった。

そして、無敵と恐れられた武田騎馬隊をあっけなく粉砕した信長は、
天下人の地位を不動のものとしていった。
後顧の憂いがなくなったため、
織田軍は、西へ西へとその勢力範囲を拡大していくのであった。






次回予告 信長 統一への道 木津川口の戦






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posted by そるらっぴー at 21:13| 埼玉 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 信長 統一への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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