2008年01月12日

戦国百科 合戦 長島攻め

信長 統一への道

長島攻め
天正二年(1574) 織田信長vs一向一揆



<九鬼水軍もふくめた信長の包囲作戦で、
 籠城むなしく一向衆徒二万余が焼殺された>



元亀一年(1570)織田信長が摂津石山本願寺攻めに出陣中、
越前の朝倉義景、北近江の浅井長政は、近江坂本(滋賀県大津市)に陣をおいて、
信長方の宇佐山城を攻め、信長の弟である織田信治、重臣森可成らを討ち取った。
その後、朝倉・浅井両軍は比叡山に籠って信長軍と対峙し続けた。


長島の一向衆が蜂起 初戦は信長軍が撤退

信長が四方を敵に挟まれて身動きできないなか、
河内長島(三重県長島町)の一向衆が蜂起して、
信長の弟織田信興が入城していた尾張小木江城(愛知県立田村)を
包囲・攻撃し、信興を自害に追い込んだ。

長島は尾張国内に属し、木曽・長良・揖斐川などが合流する河口のデルタ地帯にあった。
河川整備が進められた現在とは異なり、当時は河川が乱流し、
その間に多くの島状となった中州が存在していた。
この一角の長島に一向宗の願証寺が構えられ、その周囲には支城までもが築かれていた。
願証寺は信長の政策に反抗することもしばしばであった。
信長はその抑えとして小木江城を築き、弟の信興を在番させていたのである。

朝倉・浅井軍との和議を整えた信長は、元亀二年(1571)五月十二日に、
兵を三方に分けて長島攻めに取り掛かった。
これに対して、地の利に明るい一揆軍は、信長軍の先回りをして
鉄砲、弓矢による伏兵攻撃を仕掛けるなどの合戦におよんでいる。
ついには美濃三人衆の一人である氏家ト全(うじいえぼくぜん)が討死し、
柴田勝家も手傷を負うという損害をこうむり、信長軍は撤退を余儀なくされた。


信長の徹底的な大包囲網 一向衆徒を殺戮

天正一年(1572)に宿敵であった朝倉・浅井氏を滅ぼした信長は、
翌天正二年七月十三日、尾張津島(同津島市)に本陣をおき、
長島一揆掃討戦に乗り出した。

東方の一江口(同佐屋町・弥富町付近)からは
信長嫡子の信忠を大将として織田信包、斎藤新五郎、森長可(ながよし)らが、
西方の賀鳥口(三重県多度町)からは佐久間信盛を筆頭に、柴田勝家、稲葉一鉄が、
中筋早尾口(愛知県佐織町)からは信長自身に加えて、
丹羽長秀、佐々成政、前田利家らが進軍した。

これに対して一揆軍は、長島周辺の支城や河の渡し場、あるいは堤の上に布陣した。
しかし、大軍をもってする信長軍の猛攻にはなすすべがなく、
支城の多くも火を掛けられ、一揆衆は妻子を連れて長島へ逃げ込むことになる。

十五日になると、九鬼嘉隆(くきよしたか)、滝川一益(かずます)らが
安宅(あたけ)船(大型の軍船)を率い、林通勝らも海上封鎖の船を
伊勢・尾張周辺の浦々からかき集めて集結した。
それぞれの船は旗幟をなびかせながら、海上より一揆軍を攻撃した。

しだいに追い詰められた一揆軍は、長島をはじめとする
篠橋、大鳥居、屋長嶋、中江の五ヶ所に籠城する。
信長軍は、海上からは蟻の這い出る隙もないほど多くの船で包囲し、
足場が悪いところでは船をできるだけ接近させて陸上への攻撃を仕掛けた。
とくに大鉄砲(大砲の類?)を用いた攻撃は、
一揆軍の城郭の塀や櫓を打ち崩し、大いに心理的なダメージを与えた。

もとより信長はこれまでの鬱積を晴らすべく、
干殺しによる長期戦の構えを崩さず、降伏、助命を乞う一揆軍を許さなかった。

八月二日の夜、折からの大雨にまぎれて大鳥居砦からの脱出を計った
一揆軍の男女千人ほどは信長軍により無惨にも切り捨てられた。

九月二十九日になると、一揆軍は長島からの退去を条件に信長軍に降伏した。
約三ヶ月間続いた籠城で、一揆軍では兵糧も減り、
餓死するものも少なくない状況になっていた。
信長は降伏を受諾したふりをしながら、一揆軍が舟に乗って退去するところを、
あらかじめ備えておいた兵で一揆軍めがけて鉄砲を乱射した。
思わぬ伏兵に一揆軍の多くは討たれたが、窮鼠猫を噛むが如く、
一揆軍の抜刀隊が信長軍に最後の抵抗を試み、
信長軍も信長の兄信広、弟秀成、一族信時が討たれるという大きな痛手をこうむった。

一揆軍の一部は伊勢方面や石山本願寺に逃げのびたが、
支城である中江・屋長嶋城に残された男女二万人ほどは、
信長軍のめぐらせた柵によって逃げ延びることもできず、
四方から火を掛けられて焼き殺された。
男女二万人というのは誇張かもしれないが、
多くの非戦闘員が信長の手により殺戮されたことは事実であろう。


政治・経済上の要地長島は滝川一益領に

この日のうちに、信長は岐阜に凱旋するが、
その後の長島は北伊勢を領した滝川一益領に編入される。
そして、信長の意をうけて一益は長島に自らの居城を築いた。
往時の長島城の構造は不明ながら、石垣普請がなされていたこと、
天正十一年(1583)に伊勢・尾張二ヶ国を領した、
信長の次男信雄が長島を居城とした時期があることから、
相応の規模・構造を有する織豊系城郭化が図られていたと考えられる。

長島城は近世においても形態を変えつつ存続するが、
こうした点は、尾張・美濃・伊勢三国の境界部で、
河口部に位置するという長島の地理的な環境が、経済・物流の拠点として、
また政治上においても重要な場所であったことをしめしている。

現在、一揆の拠点となった願証寺とその支城は、
後世の木曽川河道の変動などにより、何ら遺構をとどめず、
位置が定かでないものも多い。






次回予告 信長 統一への道 長篠の戦






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posted by そるらっぴー at 22:09| 埼玉 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | 信長 統一への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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