小谷城の戦
天正一年(1573) 織田信長vs浅井長政
<近江浅井氏の堅固な要塞小谷城も、
信長の復讐の前に女たちの悲哀とともに陥落した>
元亀一年(1570)六月、姉川(滋賀県浅井町)の合戦で勝利を収めて以来、
信長は近江の攻略をめざし、機をうかがっていた。
姉川では浅井・朝倉軍を破ったものの、
城に逃げ込んだ浅井軍を完全に討ち滅ぼしたわけではなかった。
信長にとって、近江は京と岐阜を結ぶ重要な拠点であっただけに、
浅井氏を滅ぼして近江を平定することは重要な戦略の一つだったのである。
信長、小谷城の包囲を強化 信玄の動向で中断
そして機は到来した。
信長は小谷城にいる浅井長政を攻めるため横山城(同山東町)に木下秀吉を配置した。
自らも元亀三年(1572)三月に岐阜から近江に出陣して横山城に入城した。
その後、前線で戦場形態を確認した後、いったん岐阜に帰城し、
七月十九日に嫡男信忠を伴って五万の兵で再び岐阜を出立し、
二十日に横山城に入った。
二十一日、信長は信忠とともに小谷城眼前の虎御前(とらごぜ)山と
雲雀山(同湖北町)に陣を敷き、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、
木下秀吉、蜂屋頼隆らに小谷城攻略を命じた。
織田軍は城下清水谷(じょうずだに)に火を放ち示威行動に出た。
二十二日には木下秀吉に命じ、湖岸に位置する山本山城を攻めさせた。
しかし、城を守る阿閉貞征(あつじさだゆき)の抵抗は強く、
秀吉は兵を退かざるを得ない状況になった。
それでも信長は手を緩めることなく越前との連絡路である、
伊香郡丹生谷(同余呉町)を攻略し、拠点となっていた大吉寺僧坊五十に火をかけた。
信長はこうしてじりじりと小谷城の包囲網を強くしていった。
しかしまだ、小谷城の浅井軍が応戦してくる気配はなかった。
そのようななか、二十七日に虎御前山に要害を構築した信長はついに決戦を決意した。
一方、信長の意思を感じていた浅井方は七月七日、越前の朝倉義景に援軍を求めた。
依頼を受けた朝倉義景は朝倉景鏡(かげあきら)に命じ、
五千の兵を率いて先陣として小谷城救援に向かわせた。
また、朝倉義景自身も一万五千の兵を率いて、
三十日には小谷城北砦の大獄(おおづく)に到着していた。
この合戦の舞台となった小谷城は、滋賀県東浅井郡湖北町に位置する
小谷山頂の峰を利用して築かれた山城である。
北奥にあたる大獄から延びる尾根上を成形し、
三王丸、小丸、京極丸、本丸などの郭が配置されていた。
山の東斜面は絶壁で、西斜面には堅堀が幾筋も築かれた堅固なものであった。
信長はこの城を攻略するため、秀吉に命じて麓の集落に、
堤防を築かせ、強固な包囲網を敷いた。
だが、攻略はすぐには進まなかった。
その裏には武田信玄の動向があったのである。
信玄動くの報に、信長はいったん九月に岐阜に帰った。
甲斐を南下し、三河に進出してきた信玄は信長の盟友徳川家康を脅した。
そして織田・徳川軍は三方原で大敗を喫した。
この絶対絶命のピンチにまたしても天命ともいえる事件で信長は救われる。
ひとつは雪を嫌う朝倉軍の撤退であり、
またひとつは信玄の死による武田軍の撤退であった。
小谷城攻略に向け再出陣 援軍朝倉を滅ぼす
天正一年(1573)八月八日、信長は中断していた浅井攻略に乗り出した。
山本山城の阿閉の内通の知らせを聞いた信長はすぐさま岐阜から出陣。
その夜、月ヶ瀬城(同虎姫町)を落とす。
これに応じて朝倉義景が二万の兵を率いて再出陣し、木之本、田部山に陣を敷いた。
大獄焼尾の浅井方砦を死守していた浅見対馬守が信長方に降った
十二日を期に、信長は大獄を攻めた。
朝倉軍はほどなく降伏。
信長はこの大獄を足掛かりに丁野山(ようのやま)を攻撃した。
十三日、丁野山が陥落。
これによって、浅井軍と朝倉軍は完全に遮断されてしまった。
朝倉軍は浅井軍を見放し撤退を始める。
信長は、佐久間、木下、滝川、永原、進藤、蜂屋等の軍で追撃させた。
こうして、二万の朝倉軍は敗退し、一乗谷をおとして朝倉義景は自刃させられた。
信長の降伏勧告を拒否し浅井父子は自害
朝倉軍を滅ぼした信長は二十七日から小谷城総攻撃を開始した。
まず、長政の父久政が守る小丸と長政が守る本丸を分断すべく、
間の京極丸攻略に着手した。
総大将は木下秀吉である。
秀吉軍は、木下小一郎が率いる蜂屋、前野等の兵五百で山の斜面から、
秀吉が率いる竹中半兵衛、加藤光泰の兵七百で虎口から攻めた。
総勢は三番手六百、後詰めの生駒親正、一柳直次を含めた三千であった。
この戦いで京極丸は落ちた。
しかし、信長は最後の戦いをためらった。
それはいったんは義兄弟として信頼を寄せていた長政への思いと、
そこへ嫁がせた妹市とその三人の娘を思ってのことだった。
しかし、信長の開城降伏の勧告を長政は辞退し、
市ともども自刃する決意を固めていた。
秀吉は竹中とともに市たちの救出を敢行する。
それを見届けた信長は二十八日、小丸総攻撃を秀吉に命じた。
久政は八百の兵とともに自刃。
続いて、長政の死守する本丸に兵を向けた。
長政は兵五百ほどでこれを防いだが、信長自らの総攻撃の前についに力尽き自刃した。
ここに浅井三代は滅亡した。
久政・長政の頸は獄門にかけられた。
翌年正月の祝賀の席で、信長は、二人の箔濃(はくだみ)の髑髏で家臣に祝酒を飲ませた。
また、小谷城から救い出された市はその後、柴田勝家の妻となり、
三人の娘は、小督(おごう)が徳川秀忠の妻となって、千姫や初姫、家光を生み、
お初が京極高次の妻となって忠高を産んだ。
お茶々は秀吉とのあいだに秀頼をもうけ、秀頼は千姫を妻とした。
小谷城の合戦に絡んだ人間は数奇な運命をたどることになる。
まさに戦国の世を映す戦いであった。
次回予告 信長 統一への道 長島攻め
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