2007年12月21日

戦国百科 合戦 三方原の戦

信長 統一への道

三方原の戦
元亀三年(1572) 武田信玄vs徳川家康



<籠る浜松城直前で突如向きを変えた信玄軍
 家康は出撃するが、二万五千の大軍に総崩れとなった>



元亀年間(1570〜73)にはいると、将軍足利義昭の陰謀により、
畿内では、浅井・朝倉連合軍と本願寺を中心に三好三人衆らも加わり、
織田信長包囲網が形成されていた。

元亀三年(1572)これに加え武田信玄までが二万五千の大兵力で
甲斐を出陣、遠江・三河へと向かってきたのである。
武田軍は信州街道を南下、青崩(あおくずれ)峠を越え、
犬居城(静岡県春野町)をめざした。
ここで隊を分け、一隊は只来城(ただらい 同天龍市)を落とし、
二俣城(ふたまた 同天龍市)を囲んだ。
本隊は、天方城・飯田城(同森町)、各輪城(かくわ 同掛川市)を落とし、
木原縄手(きはらなわて 同袋井市)に陣取った。


水を絶たれ要害堅固な二俣城は降伏

信玄迫るの報を聞いた家康は、大久保忠世、本多平八郎らに
三千の兵をつけ、偵察隊を組織した。
深入りしすぎた偵察隊は武田軍と遭遇し、小競り合いの後、
一言坂(同磐田市・豊田町)で前哨戦が繰り広げられた。
このとき、本多平八郎が獅子奮迅の働きで勝頼隊を退け、
味方の天龍川渡川を助け、浜松城(同浜松市)へと無事帰還させた。
武田軍は、「家康にすぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と、
その働きぶりをおおいに褒め称えたという。

こののち、信玄は向笠城・匂坂城(むかさ・さぎさか 同磐田市)を落とし、
合代島(ごうだいじま)に陣を張り、勝頼に二俣城攻めを命じている。 

二俣城は、天龍川と二俣川が合流する、
三方を川に囲まれた丘陵上に築かれた要害堅固な城であった。
勝頼は、力攻めで短期決着をめざしたが、城は容易に落ちなかった。
そこで、水の手を切ることにしたが、今度は井戸を見つけることができない。

それも当然で、二俣城では櫓から天龍川の水をくみ上げていたのである。
川に面した井戸櫓に近づけない武田方は、上流から筏を流して脚柱に激突させ、
ついに櫓を壊すことに成功する。
水が絶たれ、家康の救援も望めないため、城兵はまもなく降伏し開城した。
信玄は、二俣城に在番をおき、自ら浜松城をめざし進撃を開始した。


浜松城に逃げ帰った家康 警戒して軍を引いた信玄

ところが、浜松城の北方一里の有玉(あらたま)付近まで軍を進めた信玄は、
突如西に向きを変え、三方原台地(同浜松市)に上がり、
追分(同浜松市)方面へと向かった。
この動きは、時間のかかる城攻めをさけ、徳川軍を誘い出すための作戦であった。

この戦いでは、浜松城を素通りされ面目を失った家康が、
血気にはやって出撃したといわれる。
だが、同盟者信長の状況により、少しでも信玄の行軍を
遅らせねばならなかったのではないだろうか。
理由はいずれにしろ、家康は信長からの援軍三千人を含め一万一千で出撃した。

徳川軍は、三方原を進む武田軍に対し鶴翼の陣で望んだ。
迫りくる徳川軍を確認した信玄は、行軍を停止し、
二段構えの魚鱗の陣形で迎え撃ったのである。

当初、酒井・本多隊の活躍で、徳川軍が優勢であった。
しかし、兵力の差は歴然で、後詰の勝頼の攻撃によって形勢は逆転。
徳川軍は総崩れとなり、家康自身も、逃げ惑う兵とともに
刀を抜いて防戦しなければならない敗戦となった。

家康は護衛ともはぐれ、単騎で命からがら浜松城へと逃げ帰った。
酒井・石川らの重臣は無事であったが、鳥居忠広、成瀬正義が討死し、
織田援軍の平手汎秀(ひらてひろひで)も討ち取られている。
余勢をかって浜松城へ迫った武田軍であったが、
城門を大きく開け、篝火で真昼のような城に警戒し、引き上げていった。

大勝した武田軍は、浜松城の北方の犀ヶ崖(さいががけ)付近で野営、
信長の後続の援軍到来に備えた。

武田軍の野営を知った天野康景と大久保忠世は、
家康の許しを得、百人ほどで夜襲をかけた。
地理不案内のうえ、暗闇で敵の数がわからない不安もかさなって、
武田軍は少なからずの犠牲者をだしてしまったのである。
この合戦での、徳川方の犠牲者は千百余人、武田方は四百余人といわれる。


信玄の病で進軍は停止 窮地を脱した信長・家康

勝利した信玄は、浜名湖北東の刑部で年を越し、三河へ侵入。
野田城(愛知県新城市)を陥落させるが、行軍は突如停止してしまう。

信玄が、かねてよりわずらっていた病を悪化させたのである。
武田軍は、信濃へ向け引き返さざるをえなくなった。
しかし、重症の信玄は甲斐に辿り着くことなく帰らぬ人となってしまった。
そのため、信玄の行動が上洛をめざした西上作戦であったのか、
たんなる遠江・三河制圧戦だったのかは、謎となって残ってしまった。

反対勢力に囲まれた信長は、信玄の死によって絶体絶命の窮地を脱した。
逆に、信玄動くの報せに小躍りして兵を挙げた足利義昭は、
軽率な行動の見返りとして幕府と将軍職を失ってしまうのであった。
そして家康は、回復までの時間的余裕と、
同盟者を裏切らない「律義者」という評判を手に入れたのである。

この戦いは、家康にとって決して忘れられない負け戦となった。
家康は、この敗戦を肝に銘ずるために画像を描かせている。
別名を「しかみ像」といい、慢心の自戒として生涯そばから離さなかったという。






次回予告 信長 統一への道 槙島の戦






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posted by そるらっぴー at 21:39| 埼玉 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 信長 統一への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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