2007年12月17日

戦国百科 合戦 延暦寺焼討ち

信長 統一への道

延暦寺焼討ち
元亀ニ年(1571) 織田信長vs延暦寺



<信長は、堕落腐敗した宗教界の制裁を大義名分に
 朝廷につながる政敵延暦寺を焼き尽くした>



永禄十一年(1568)に足利義昭を奉じて上洛を果たし、
元亀一年(1570)姉川(滋賀県浅井町)の戦いで大勝利を収めた信長であったが、
近畿地方における地位はまだ確固としたものではなかった。
美濃と京の間には、越前に朝倉氏、琵琶湖の北に浅井氏、
東に六角氏、西に比叡山延暦寺、摂津・河内に三好氏があり、
反信長連合軍によって包囲される状態にあった。
信長にとってこれは桶狭間以来の危機であったかもしれない。
こうしたなか、戦国史上まれにみる比叡山の焼討ちが行われたのである。


照準を比叡山延暦寺に 僧衆の堕落制裁が理由

元亀二年(1571)信長はこの反信長連合軍に対抗する準備を整えた。
正月二日、石山本願寺と朝倉との連絡網を絶つために、
横山城(同山東町)の木下秀吉に命じて越前と大坂間の道路封鎖を行わせた。
さらに二月、佐和山城(同彦根市)を包囲して磯野員昌(かずまさ)を降し、
丹羽長秀をここに入れて拠点を確保した。

八月十八日、信長は自ら軍を率いて出陣し、
横山城に陣を敷き小谷城(同湖北町)を攻めた。
そして、十日後、軍を南進させ湖南に点在する一向宗の拠点の
小川城、志村城(いずれも同能登川町)を、
九月三日には金ヶ森城(同守山市)を攻略した。
九月十一日には、瀬田川を通過して三井寺(みいでら)に布陣し、
明智光秀に命じて兵を坂本に進めさせた。
信長の目指す敵は比叡山延暦寺であった。

比叡山延暦寺は、京の護国として平安時代に最澄によって建立されたものであったが、
この当時は、僧侶を中心とする山頂の山門衆徒と、
門徒を中心とする麓の集落坂本との二つの勢力で、
権門社寺としてその権力は大きく成長していた。
しかも、その実態は多聞院英俊が『多聞院日記』のなかで、
「堂モ坊舎ヲハテキタル体也」
「僧衆ハ大旨坂本ニ下テ乱行・不法無限、修学廃怠ノ故」
と記しているとおり、建物はみな荒れ放題で、
僧侶は坂本で修学せず破戒乱行の限りを尽くしていたという。

信長はこの腐敗堕落した宗教界に喝を入れるという大義名分を掲げながら
朝廷とつながる最大の政敵叡山を攻めることを決意する。


炎に包まれた延暦寺 信徒も含め死者数千

九月十一日夜半、総攻撃に備えた信長軍は全軍三万の兵で叡山を包囲した。
延暦寺側は黄金の判金五百枚を上奏し攻撃の中止を請うたが、
時すでに遅く、もはや信長の怒りを収めることはできなかった。

戦いは九月十二日早朝、小雨の降るなか信長軍による坂本への放火で始まった。
信長は全軍に総攻撃を命じた。
兵は合図とともに堂塔に火をかけながら一気に山頂を目指した。

このときに根本中堂をはじめ山王二十一社、東塔、西塔などの堂社が
ことごとく焼き払われ、焼失したといわれている。
『信長公記(しんちょうこうき)』には「数千の屍算を乱し」、
『言継卿記(ことつぐきょうき)』には「三、四千人」とあり、
フロイスの書簡にも叡山の有名な諸大学四百余を焼き払い、
坊主の死したるもの約千五百人、俗人男女小児合わせて同数であったとし、
信徒のすべてはことごとく見つけ次第首をはねられたと、
焼討ちの悲惨さを伝えている。
その一方で信長は「年来の御胸朦(ごきょもう)を散ぜられおわんぬ」と
焼討ちによって、年来の胸のもやもやを解消したことがわかる。

近年の叡山や近江の社寺、坂本周辺の発掘調査では、
信長の焼討ちを実証するものは発見できていない。
焼討ちはなかったという報告すらなされている。
このことから、信長による比叡山の焼討ちや元亀争乱での近江社寺焼討ちが
「全山」や「ことごとく」といった言葉でよく表現されていることが、
必ずしもすべて当てはまるわけではないことがわかる。

いずれにせよ、当時の記録からは比叡山焼討ちの事実は、
隠しようのない事実なので、そうすれば焼討ちの規模に
問題が残るということになるであろう。


信長は冷酷無慈悲なだけの男だったか?

信長にとっては確かに堕落する寺院や政敵となる宗教に対しては
制裁を加えるということは大義名分であり、
実際は天下布武に逆らう輩を退治したに過ぎない。
しかし、それは宗教的権威を剥奪することによって日本史上はじめての
政教分離を目指そうとしたに過ぎないのかもしれないのである。

確かに記録からは焼討ちにおける殺戮があったであろう。
しかし、その一方では信長により庇護されたたくさんの寺院や
領地が存在することもまた事実である。
叡山焼討ちをもって信長に無神論者や冷血な独裁者という
イメージをもつことは必ずしも正しいとはいえないのではないだろうか。

江戸時代以降戦前までの信長像は、国から建勲されてその功績は讃えられ、
焼討ちに対しても肯定的な立場がとられたものであった。
神をも恐れぬ信長像の成立はかなり新しい。
神になろうとした信長の姿は歴史を面白くするために、
現代の歴史家たちによって作り上げられたものである。

近年、四百年ぶりに比叡山延暦寺は信長と和解したという。






次回予告 信長 統一への道 三方原の戦






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posted by そるらっぴー at 22:06| 埼玉 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 信長 統一への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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