沖田畷の戦
天正十二年(1584) 島津家久vs龍造寺隆信・鍋島直茂
<少弐氏を滅ぼして大名となった隆信だったが
彼も少弐氏と同じ運命をたどろうとしている>
天正六年(1578)大友氏は耳川の合戦に大敗して、急速に勢力を衰退させた。
一方、勝利した島津氏はもとより、肥前の龍造寺隆信も勢力を伸長させた。
隆信は、肥後に進出して小代親伝を降すと、
筑後では蒲池鑑広(かまちあきひろ)を降し筑後を制圧した。
そして、天正九年に蒲池鑑並(しずなみ)を謀殺すると、
筑後で黒木氏などの反乱がおこり、田尻鑑種(あきたね)までもが背いた。
その背後には、北上しようとする島津義弘がいた。
有馬鎮貴、島津氏と結ぶ 龍造寺の大軍に万全の備え
天正六年以降、隆信の麾下となり、
隆信の嫡子鎮賢(しずかた 政家)の室に妹を差し出していた
有馬鎮貴(しずたか 晴信)は、勢力を強めていた島津氏を頼った。
天正十年十月、鎮貴は島津勢とともに安富純治(やすとみすみはる)の
深江城(長崎県深江町)を攻め、さらに翌年六月、
隆信の援助を得た深江城を攻撃したが、
新納刑部(しんのうぎょうぶ 忠元の子息)は討死し、鎮貴は囲みを解いた。
天正十二年(1584)正月、有馬鎮貴は安徳純俊(あんとくすみとし)を
肥後在陣の島津義弘に派遣し、援助を要請した。
龍造寺隆信はこれを知ると、神代貴茂(こうしろたかしげ)を深江城にいれ、
事態を打開しようとしない鎮賢を差し置いて、
全軍に出陣を命じ、有馬討伐を布告した。
そして、これを諫める鍋島直茂の声にも応じなかった。
隆信以下の大部隊は須古城(すこ 佐賀県白石町)から
龍王崎(同有明町)に出て船に乗り、十九日に神代(長崎県国見町)に着いた。
彼らは、二万数千の全軍が揃うと進軍を開始した。
一方、島津氏では派兵に慎重論も出たが、義久は不利は承知の上で、
決死の精兵を送ると命令し、弟家久、一族の忠長、新納忠元、
伊集院忠棟、山田有信、鎌田政、川上忠堅以下の三千名と、
先陣を願い出た赤星一党を出陣させた。
肥後の国人赤星統家は、隆信に人質に出していた子を、
肥筑国境の竹井原ではたものにされ、その恨みを晴らすために
先陣を願い出たもので、彼らの渡海は三月二十日前後のことであった。
島津・有馬連合軍は、隆信の大軍が展開して威力を発揮できない地形の
場所を決戦の地にしようと、島原の沖田畷(おきたなわて)を選んだ。
当時、この地は眉山の麓から海までの間は沼沢地で、
その中を道が細長く続いていた。
彼らはこの道に木戸を設け、両側を海から山麓まで鹿垣を築いて阻止線とした。
そのうえで、中央には赤星の五十名と家久の千名、
山側に新納忠元の千名、海側に伊集院忠棟の千名を配置した。
さらに、山麓の丸尾(のちの丸尾城、同島原市)には猿亘越中守、
海際の森岳(現在の島原城の地)に有馬鎮貴の五百名が、
海上には安留越中の石火矢を載せた十三艘の軍船が配置された。
決戦に備え、家久は子息の豊久を帰郷させようとしたが、
豊久は拒み戦列に加わった。
龍造寺軍、待ち伏せに混乱 有力武将も次々に討死
隆信は二十三日の前哨戦に勝った後、翌日に島津・有馬軍の主力は
まだ日の江城(同北有馬町)付近にいると思い込んでいた。
待ち構えている敵勢を少数と見誤り、中道を隆信が、
山手を直茂が進み、進軍順路を急遽変更したのである。
島津・有馬軍は、隆信軍の先陣が間際に接近するまで待って、
弓、鉄砲をあびせかけ、討ち崩れる先陣に赤装束の赤星隊が切り込んだ。
第二陣は、救援しようにも細道ではできず、
敵正面に立つ数名ごとに討ち取られ、後退もできずに立ち止まってしまった。
隆信は、様子を見るように馬廻りの吉田清内に申し付けた。
清内は前線に出ると、進撃しないとは臆病者、大将が進めないではないか、
命を惜しむな、と触れ回った。
これに立腹した小川武蔵守、納富能登守をはじめ、
二陣、三陣は深田に入り、敵に向かった。
だが、緩慢な動きしかできない兵は銃撃の好餌となり、
先陣の小川、納富、二陣の龍造寺下総守、三陣の倉町左衛門は討死した。
このときを見計らって、島津家久は正面の本隊を突入させた。
浮き足立つ龍造寺の諸隊の両側面を、伊集院、新納が襲うと、
龍造寺軍は総崩れとなった。
「汝大将首討つ法を知れりや」龍造寺隆信、あえない最後
本隊の隆信は馬に乗らず、六人がかつぐ輿に乗っていた。
龍造寺四天王のうち、木下四郎は直茂のそばにあり、
今山合戦に大友八郎を討った成松遠江守と百武志摩守は
隆信を脱出させるため奮闘して果てた。
江口里藤七兵衛は乱戦のなかで島津家久に近づき斬りつけたが、近習に討たれた。
また、園城寺美濃守が隆信を名乗り身代わりになったものの、
隆信は退避しきれずに川上忠堅に討たれた。
このとき、隆信は「汝大将首討つ法を知れりや」と問うと、
忠堅は畏まって「如何なるか、これ剣刃の上」と尋ね、
隆信は「香炉上、一点の雪」と答えた。
忠堅は一拝して首を討ったという。隆信享年五十六であった。
(この会話の大体の意味について)
川上「龍造寺隆信殿とお見受けいたす、御首級頂戴」
隆信「おまえは大将の首を討つ方法を知っているのか?」
川上「生死の境にあってもたじろがぬほどの覚悟を決めることであろう?」
隆信「香炉上の一つまみの雪が一瞬にして消えるように
今は私欲や固執が消え去ったよ。」
(こんな感じだと思います…たぶん)
一方、森岳に向かった江上家種は執行種兼(しゅぎょうたねかね)の
一族以下郎党を全滅させたが、戦場を離脱した。
丸尾の鍋島直茂は勝ち戦ではあったが、本隊が敗戦したため崩れ、
島津家久の追撃を振り切って三会(みえ 同島原市)に落ちた。
そこで乗り込んだ船は田雑大隈守という有馬氏配下の船であったが、
同行の中野式部がいいくるめて渡航させた。
田雑はのちに鍋島の家中となる。
この戦いの結果、龍造寺氏の使者は侍二百三十四名、雑兵八百人だったという。
戦後、鍋島直茂はただちに弔い合戦の準備をしたので、
島津氏が領内に急迫することはなかった。
しかし、父を討たせた龍造寺鎮賢は重臣や国衆から見限られ、
彼らは次々と離反していった。
龍造寺の領国もわずかなものとなった。
これを建て直すため、龍造寺一族は鍋島直茂を呼び出して、
領国経営の全権を任せた。
鍋島家が龍造寺家にとってかわるきっかけである。
これを後世、龍造寺側から見た戯作が「佐賀化け猫騒動」である。
次回からは、「信長 統一への道」と題して、
織田信長軍に注目して戦を見ていきます。
次回予告 信長 統一への道 姉川の戦
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