今山の戦
元亀一年(1570) 鍋島直茂vs大友親秀
<大友宗麟の大軍を前に佐嘉城に籠城した龍造寺軍は
大友軍の不意をついて混乱に陥れた>
永禄十一年(1568)肥前平戸(長崎県平戸市)の、
松浦鎮信(まつらしげのぶ)は龍造寺(りゅうぞうじ)隆信の侵攻を察知すると、
豊後を本拠とし北部九州に大勢力を誇る大友宗麟に助けを求めた。
宗麟は唐津の波田氏などに松浦氏の救援を命じた。
ところが、四月二十九日、伊万里での合戦に、
波田氏は隆信に寝返り、背後から攻められた松浦氏は敗走した。
肥前において面目を失った宗麟は、翌十二年、自ら戸次鑑連(へつぎあきつら)
臼杵鑑速(うすきあきはや)、吉弘鑑理(よしひろあきただ)とともに、
高良山(福岡県久留米市)に出陣し、筑前に毛利氏を牽制する一方、
三月二十九日、鑑連以下三万の大軍で肥前に進入した。
隆信と抗争中の神代長良(くましろながよし)、八戸宗暘を先導として
進軍すると、恐れをなした江上武種(えがみたけたね)以下の
肥前の国人はこぞって大友氏に味方し、隆信の舅の高木氏までが背く始末だった。
宗麟はキリスト教を信じていたため、このとき、
数多くの寺社仏閣が焼き払われたという。
龍造寺隆信は、毛利氏に援軍を要請するとともに、
佐嘉城(さが 佐賀市)に籠城した。
城の北方に陣した臼杵鎮富(しげとみ)は、
多布施(佐賀市)に攻め寄せ、各所で小競り合いが繰り返された。
一方、要請を受けた毛利氏は大軍を動員し、
立花城(福岡市)を囲み、ついで肥前に進入した。
そこで、大友氏も毛利氏に対抗するため、四月十五日、
肥後の城親冬(じょうちかふゆ)を仲介としてとりあえず隆信と和睦した。
隆信は、秀島家周(ひでしまいえちか)を人質として豊後に送った。
大友の大軍ふたたび出陣 佐嘉城を十重二十重に包囲
ところが元亀一年(1570)豊後に送られていた、
秀島家周がひそかに脱出し帰国した。
前年の和睦を違える所行に宗麟は怒り、
三月、大軍をもって再度の肥前侵攻を開始し、宗麟自身は高良山に陣をしいた。
大友軍はさらに、四月六日、臼杵鑑速、吉弘鑑理が
佐嘉城の東六キロの、姉、境原(ともに佐賀県千代田町)に着陣。
志賀、田原、一万田、田北氏は柳川より船で城の南東六キロの、
寺井(同諸富町)、早津江(同川副町)に陣をおいた。
また、神代氏の案内により、戸次鑑連、高橋鑑盛(あきもり 紹運)が
北九キロの川上(同大和町)に陣をおくと、その東の春日(大和町)、
千布、金立(こんりゅう 佐賀市)に東肥前の国衆も陣を連ねた。
小田鎮光(しげみつ)も多久城より水上山(大和町)に、
有馬鎮純(しげずみ)は西の牛津(同牛津町)に着陣し、
佐嘉城は七ヶ国数万の軍勢に取り囲まれたのである。
二十二日、龍造寺の部隊は佐嘉城より出撃し、
巨勢若宮(こせわかみや 佐賀市)で田尻親種(ちかたね)以下と戦い敗れる。
さらに五月中ごろ、東の高尾(佐賀市)で戦い、
親種は深手をうけて帰国後死亡した。
六月四日、龍造寺方の鍋島直茂(信昌)は高尾で鉄砲戦を行い、
十三日、北の長瀬(佐賀市)で神代勢と合戦し敗退する。
七月六日、直茂は南の海ぎわ浮盃(ふばい 同川副町)で
大友方の筑後の兵船を襲撃し、その結果、兵船の多くは帰国した。
さらに、二十七、二十八の両日は、東南の大堂、橋津(同諸富町)に
ふたたび筑後勢の水軍を襲い、勝利した。
八月七日、龍造寺隆信は、鍋島直茂と小川信友を先陣として、
高尾の戸次鑑連を攻撃した。
全軍あげての攻撃に、鑑連は後退した。
隆信は攻撃を続行しようとしたが大雨になり断念、
引き返すところを神代、八戸勢に衝かれた。
しかし納富(のうどみ)、安住、百武らの救援により旗本に守られ帰城した。
鍋島直茂、不意を突く 今山で大友親秀討たれる
宗麟は、猶子の大友親秀(ちかひで 親貞)を大将として派遣した。
八月十六日、親秀は中津隈(同北茂安町)から金立山に登り、
川上真手(同大和町)に陣をおいた。
十八日、納富信景は前線の黒土原(大和町)を攻撃するが敗れる。
同日、親秀は今山(大和町)に陣を移した。
一方、佐嘉城内では、包囲軍に対して無勢なので、
和睦を考え始めていたが、鍋島直茂は断固決戦を主張していた。
十九日、直茂は明二十日に大友勢の総攻撃があることを知り、
親秀が陣を移してまだ守りをかためていないと判断し、夜襲を進言した。
隆信の母慶ぎん(直茂の義母でもあった)はこれを強く推し、
士気を鼓舞するとして隆信も同意した。
偵察に出した成松信勝の報告は、親秀の陣は酒宴中という。
直茂は、討ちもらせば帰城せず、と即時出撃し、
新庄の勝楽寺で兵をそろえ食事をとった。
そして、藤折(同三日月町)で鴨打持永の兵が合流すると、
親秀の陣へ接近した。
今山の陣は高取山の東、北の山塊から派生した尾根端にあった。
標高は百五十メートル。
背後から近づいた鍋島直茂は、篝火に美しく映える
陣幕の杏葉の紋を見て、勝利して家紋にしようと誓った。
これが鍋島家の家紋のいわれという。
ここで、神代長良の裏切りと号し、直茂は本陣に突入した。
これに呼応して鴨打勢も攻撃に加わると、小城の一揆衆も撃ちかかった。
大友親秀の部隊は混乱し、親秀は山越えで逃れようとするところを討たれた。
龍造寺隆信の命により於保(おほ 同大和町)に陣した納富信景は、
麓の陣地を攻撃し、大友勢は大混乱におちいった。
筑後の城親冬、隈部は生け捕られ、
八戸宗暘は撤退中に傷を負い、後日死亡した。
これをみて、有馬鎮純は陣を引き払い、小田鎮光も山を下ると、
旧領の蓮池(佐賀市)より筑後へ落ちていった。
二十日、帰陣した直茂、信景はただちに多久城(同多久市)を攻め、
留守の江口、内田を討ち、鎮光の妻子となっていた隆信の娘子を救い出した。
二十三日、信景、隆信は高尾で戸次式部を討つが、
戸次鑑連、臼杵鑑理は動ぜず、九月末まで在陣した。
ここで、神代長良は大友宗麟に和睦を勧め、
筑後の田尻鑑種(あきたね)が仲介に入って、
隆信の弟信周(のぶちか)を人質とし和議を成立させた。
城、隈部が返されると、十月三日、宗麟は高良山を引き払った。
この合戦に大友勢を打ち破った龍造寺隆信は、
その地位を確立すると、国衆を家臣団に組み入れ肥後の統一を進めた。
鍋島直茂は龍造寺家中で最有力の重臣となり、のちの鍋島藩成立の基礎とした。
次回予告 中国・四国・九州の合戦 耳川の戦
またのお越しをお待ち申し上げます。
ぽちっとしていただけると嬉しいです↓


