2007年11月21日

戦国百科 合戦 立花城の戦

中国・四国・九州の合戦

立花城の戦
永禄十二年(1569) 吉川元春・小早川隆景vs大友宗麟



<博多進出を狙う中国の毛利と迎える大友
 立花城を舞台に両軍が入り乱れて激突した>



筑前立花城の城主立花氏は大友氏の出自で、
建武年間(1334〜38)に大友貞載が立花城を築き、
以来立花姓を名乗り筑前の押さえを担っていた。
立花城が貿易港博多を見下ろす要衝を占めていたからである。

立花城は福岡市と新宮町の境にあたり、
標高367メートルの井楼山が本城(東城)である。
その北西に松尾ヶ岳、西に白岳(西城)、松尾ヶ岳の南に大つぶら、小つぶら、
東の立花口に大一足、小一足の七峰の城からなりたち、九州最大の山城といわれる。


中国の毛利が九州進出 内応に揺れる立花城

中国の大内氏は九州に進出して少弐氏、大友氏と戦い、
博多を拠点として日明貿易により多くの利益をあげていた。
天文二十年(1551)の大内氏滅亡後、陶氏を滅ぼした毛利氏も、
博多進出を狙い大友氏と激突する。

毛利氏は豊前、筑前の領主に内応を勧めた。
これに秋月氏、筑紫氏、原田氏などが応じたが、
大友宗麟は戸次(へつぎ)氏、臼杵(うすき)氏を派遣して平定した。

永禄八年(1565)「西大友」とよばれていた、
立花但馬守鑑載(あきとし)が大友宗麟に敵対した。
宗麟は吉弘鑑理(よしひろあきただ)と、
戸次鑑連(あきつら)を派遣し、七月には制圧した。
鑑載は許されたが、白岳には宗麟から派遣された、
怒留湯融泉(ぬるゆゆうせん)が入った。

永禄十年(1567)九月、毛利氏に与した宗像氏貞(むなかたうじさだ)と
許斐(このみ)氏備が立花城攻撃を画策したため、
立花鑑載と怒留湯融泉は城外に討ってでた。
十月、西郷荘を焼き払ったものの、
多賀隆忠(たがたかただ)が討たれ、立花城に帰城した。

永禄十一年、立花鑑載は毛利元就に使者を送り、大友氏に謀反する旨を伝えた。
宝満城(ほうまん 福岡県太宰府市)の高橋鑑種(あきたね)からも
同様の申し出があり、元就は立花城へ援軍を送った。

一説によると、高橋鑑種の実兄一万田親貫(いちまんだちかつら)の妻は
絶世の美人であり、稀代の漁色家であった宗麟が彼女を手に入れるために
親貫を無実の罪により殺害したとある。
有能な忠臣であった鑑種もがまんならず謀反に走り、
先年のいきさつから鑑載もともに毛利氏に与したらしい。

鑑載は大友氏の家臣を謀殺すると白岳の怒留湯融泉を襲った。
負傷した融泉は宗麟に事態を通報した。
宗麟は戸次鑑連、臼杵鑑速(あきはや)、吉弘鑑理以下三万の軍勢を出撃させ、
四月二十四日には立花城を囲んだ。

城内にこもったのは立花鑑載、安武民部丞、原田親種、
高橋鑑種の家臣衛藤尾張、毛利氏家臣清水左近将監など一万人という。

ところが鑑載家臣の野田右衛門太夫は戸次鑑連に通じて城内に鑑連勢を引き入れた。
城内は混乱し安武民部丞は生捕りにされ、
原田、衛藤、清水は名島城(福岡市)に脱出した。
立花鑑載もわずかな手勢で落ち行くところを野田に通告されたため、
鑑連の兵に追撃された。
囲まれた鑑連は野田ごときに裏切られたのは無念であると、
従者十四人とともに自刃して果てた。
原田、衛藤、清水は立花城を回復しようとしたが果たせず、
清水が長門に帰国したのは八月二日である。


吉川・小早川軍が城を奪取 大友軍と銃撃戦

永禄十二年(1569)四月、毛利元就は高橋鑑種の救援に出陣し、
吉川元春・小早川隆景は豊前より筑前に入った。
立花城内の大友配下の津留原(つるばら)氏、田北氏、
臼杵氏は迎撃したがかなわず籠城した。
吉川氏、小早川氏は立花城を完全に包囲して水の手を押さえた。
吉田弥六兵衛は城を脱出して宗麟に窮状を訴えた。
この事態に宗麟が投降を容認したため城内にいた津留原氏、田北氏は投降した。
元就は投降の将兵に危害を加えることなく大友氏の陣まで送り届けさせた。

立花城に入った吉川元春・小早川隆景はここを拠点とした。
一方、大友氏は博多を拠点とし、戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理以下が集結した。
毛利氏の兵は周防、長門、備中、備前、安芸、岩見、
出雲、伯耆と、他の数ヶ国からなる四万人、
大友氏の兵は豊前、豊後、筑前、筑後以下分国全ての兵を集中して三万七千人。
動員された兵員は敵味方三十ヶ国におよんだという。
五月十八日、両軍は博多、松原、多々羅、香椎で四度激突し、
銃撃戦により多数の死傷者を出す大合戦となったが、
勝敗は決まらず双方とも引き下がった。


大内氏の山口進入に毛利軍は九州から撤退

ところが、宗麟の画策により山中幸盛らが出雲の
月山富田城(がっさんとだ 島根県広瀬町)を攻撃し、
大内輝弘も山口に侵入した。
十月、元就はこれを無視できず、立花城を残して、
九州在陣中の軍勢に引き上げを命じた。
吉川氏、小早川氏は立花城を出て小倉へ撤退した。
この退却中、大友軍に追撃され、毛利軍は三千余の犠牲者を出している。
しかし立花城の守備は毛利氏配下の坂田氏、桂氏、浦氏により貫徹された。

元亀一年(1570)大友宗麟は高良山(福岡県久留米市)に出陣し、
戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速に立花城攻撃を命じた。
守備の三氏は投降の進めに応じ城を出た。
大友氏は先年の故事に習い、毛利の将兵を長門まで送り届けた。
これにより毛利氏は念願の博多支配をあきらめた。

翌二年五月、戸次鑑連は立花城主となり立花姓を継いだ。
のちに剃髪して道雪を名乗り、養子統虎(むねとら)は
島津氏の侵攻と立花城にてくいとめることになる。

ところで、立花城は現在ハイキングコースとなり、
博多湾を見下ろす景勝地である。
ここには石垣が残るが、この石垣は小早川氏が、
天正十五年(1587)に筑前に入り、
天正十七年に名島城を居城とするまでに修築したものと考えられている。







次回予告 中国・四国・九州の合戦 今山の戦






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posted by そるらっぴー at 21:29| 埼玉 晴れ| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国百科 中国・四国・九州の合戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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